私の社会像 5

人は生まれながらにして、自分以外の人によって育てられ、人の中で暮らし、人から得たもので成長する。
空気・日光・水・衣食住用物資・自然動植物・温度湿度などが完全であっても、自分以外の人の要素を欠いては、安心も満足も幸福も語れない。
幼い子どもだと分かり易いが、周囲の人次第で、安心要素にも不安要素にもなる。人に対する不審や猜疑は、天変地異・自然災害よりも深刻で、生涯の不安・心配要素とも云える。
 ・人を受け容れ、人から受け容れられること。
 ・人を退け、人から退けられること。
このことが人の心に及ぼす影響は甚だしく、正反対の心の状態を齎す。
人を退けたり、人から退けられることが一切ない社会はどうだろうか。
人には本来、人を受け容れよう、人に受け容れられたい、とする欲求があるのではないだろうか。しかし、社会通念というものがそれを妨げているのだと思う。規則・道徳・倫理観・常識観が障壁となって、それから外れる人を受け容れない。
また、人はその社会に受け容れられようと努力するが、順応しきれない人は無理が生じ、脱落したり反社会的行動をとる。
これは大人社会のみでなく、幼児の小社会から始まっている。
誰のどんな発言や行為も受け容れる社会はどうだろうか。
悪事や迷惑行為を退けようとするが、元を辿れば、人に退けられ受け容れられないことから来る心の歪みが、そうした行為を誘発しているのだから、それを退けていては、ますます心の歪み不安定は増すばかりで、幼な子の時のように誰からも愛され受け容れられることが、心を満たし、悪行為をなくす近道だと思う。
生まれてから死ぬまで生涯、人を受け容れ、人に受け容れられて、人を愛し、人から愛されて、安心満足してすごす人生はどうだろうか。そういう社会の実現を図りたい。
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私の社会像 4

優勝劣敗とか、金銭財物とか、地位・名誉とか、道徳・信心などに重きをおく価値観から来る満足感や安心感は本当のものではない。
物を豊富にしたり、福祉や教育に力を入れるのも、人々がより良く生きられる社会たらんとする施策だろうが、本当の意味での物心両面の安定・満足を目指すのなら、「人間は何によって本当の満足・安心が得られるか」を見極め知ることが何よりも優先される。
人間にとっての本当の幸福は、心の安定・安心・満足がベースで、これは心の持ち方だけでは如何ともし難く、物や環境の要素も大きい。物が不足しては心にも影響するから物も必要だが、物がいくら有ってもそれで満足できるとは限らない。
いかに物や力を持っても、それだけでは満たされないことを人は本能的に知っているからか、どんな世でも人は心の満悦を求めてはいるが、そのものの見極めが曖昧なために、縛り合い押し付け合ってでも、物や力を持てば満足できると思い、そういう満足感を得ようとしている。或いは、信仰等によって心の安定を図ろうとする。
やはり、人の心は何によって満たされるかを知ることが先決。物を軽視するのでなく物も大事だが物では解決できない心の満悦を知る。人間が一生通して幸福であるというのは、どういう人生かを見極め、それを実現する社会を目指すことが肝要だと思う。 つづく
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私の社会像 3

 社会にとって、制度・機構は最も大切なもので、真の幸福に根ざした機構・制度、つまり、物的欲求は勿論のこと、各々の心理的欲求・要求・安心・満足が得られる社会機構が必要だと思う。
 個々に具わる個性・持ち味・能力・欲求・要求は、個人差があり、時には極端に異なる場合もあるから、ある人には満足な境遇でも、別の人には耐えられない場合もあり、そのいずれかの是非を問うものでもなく、個性に適合した環境と皆が個々に満足できる社会こそ、真の平等だと思う。
 自由競争という名のもとに、貧富の差を肯定し、力のある人は欲求を満たせて、そうでない人は我慢を強いられるのでは、不平等は広がるばかりでしょう。
 また、同じ規範や環境を一様に当て嵌めて、不平・不満・外れる人をとがめるのは、個性を無視した悪平等でしょう。
 人間性にそぐわない社会機構では、こうした不平等・悪平等・不平・不満が生じ易く、その社会を治めるには、してはいけないことや、しなければならないことが必要となる。
 社会は本来、人のためのものの筈だが、そこを外したがために、社会のための人になってしまい、社会を守り営むために義務や責任を背負わし合って、不本意に生きる破目になる。社会とは、そういうものなんだ。そうやって皆で社会を背負って行くんだという通念が常識になっている。
 一人一人の個性を尊重し、全ての人の欲求・要求を真に満たしていこうとすると、感情や欲求の抑制を当然のこととして治めようとする従来の社会観・組織論には、どうしても無理がある。
 社会というものを根本的に見直して、人間性を曲げたり抑えなくてよい社会、一人一人の安心・満足を実現して行こうとする社会、人間愛を基調にした機構・制度を研究・実験しよう。
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私の社会像 2

 生きとし生けるもの皆、より良く生きようとするエネルギー(欲求)によって、進んでいるのだろう。
 人間の場合、生存の根幹をなす「肉体的欲求」というものは意外にわずかなもので、栄養を補う食料と、肉体を保護する衣類と住居くらいのものかと思う。美味しいものを食べたいとか、おなかいっぱい食べたいとか、身に合う衣服を着たいというのは「心理的欲求」であり、人間の「本能的欲求」だと思われるものを調べてみると、その大部分は「心理的欲求」であるということが分かると思う。
 この、人間の欲求の大部分を占めているであろう「心理的欲求」こそ、人間がより良く生きること、つまり幸福と大きな関係がある。
 前述した「人を縛る社会」は、人間本来の欲求に逆行するものであること勿論だが、「心理的欲求」は相対的なものだから、束縛が無くなったり、物の不足が解消すると、それで一時的な満足状態になる。しかし、社会からの束縛がなくなり、物が不足なく行き渡り、不満感・不足感がなくなったとしても、それだけでは、人間向きの社会とは言えないだろう。
 各自の目標・彼岸の達成、地位や名誉、金銭財物などを追い求めるのも「心理的欲求」だが、人は何によって、真に心充たされ、幸福になるのかを検討し調べ、それに主眼をおいた社会を構成することだと思う。
 それには、各自の欲求・要求・安心・満足を思うがままに出し合い、人と共に調べ合う場、仲良く実現し合う機会。それは権利・義務・責任など発生しない、誰がやってもよい、やらなくてもよい、各自の自由意志のみによる、かつてない新しい社会機構。子ども子どもして遊び戯れるような世界。
 それの実践の中にこそ、人の心の根源的欲求を充たすものがあると思う。
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私の社会像 1

人間における心理面・精神面の異常・不健康からくる邪心・悪意・悪行などの多くが、当人のせいにされているが、人は生まれながらにして心理面・精神面は正常であって、凡ては生まれ育った周囲社会・環境のせいと言える。

ウジやボウフラがわくのも、腫瘍や潰瘍ができるのも、妄想や怒り憎しみが起きるのも、そうなるような状況がそうさせるのであって、必然の現象とも言える。

人の心に異常を引き起こす原因を社会から取り除くことが、第一に必要となる。
社会は、人がより良く生きるために生まれたのだろうが、これを外したために社会が人の心を傷つけ苦しめる状況を生んでいる。

健康正常な人間本来の社会(真実の世界)の一番の元となるものは、社会が人を縛らないことだと思う。人を縛ることによって人を狂わせている。
最も単純明解な理だが、「かつてない新しい社会」の第一は「法で縛らぬ社会」ということになると思う。

今までの社会は、これを外していることに根本的欠陥があり、「人は縛る必要があるもの」という観念から、当然「社会は人を縛るもの」になっている。
規則や法律で人を縛らなければ、社会は成り立たないとされている。

悪行・乱行を犯す人がいるから縛る要があるのか・・・、
否、縛るから人心は乱れ過ちを繰り返すのだろう。
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