「個々人主義」を考える②

「社会革命は如何に成されるか」の資料の、個々人主義に言及しているところに、以下のような一節がある。
”彼も人、我も人”の明確な事実の認識の下に、我々は改めて自己の中に巣食う根深い個々人主義の再検討をする時ではないであろうか。

”彼も人、我も人”ということは、考えてみれば当然のことなのだろうが、どうも日頃の認識では、そうなっていない場合が多々あるようだ。
「自分だったら、あんなことはしない」
「あんなことするなんて、信じられない!」
「あれは、普通じゃないね」
「みんなしているのに、あの人だけはしない」

「自分の考えが正しい」、「自分の見たものが事実」、「自分の感覚が普通」という状態だと、人の考えや感覚がそのまま認められない、人の行動が許せない、という状態になってしまうのだろう。
裁いている自覚なく、裁いている状態。
縛る自覚なく、縛っている状態。
自由な社会、自由な関係を希いながらも、人を裁き、縛ってしまう。
どうして、そのようなことになってしまうのだろう?

自分を知る基礎コースの中でも、「自分の中では、「一人一人が異う」と本当になっているか?」というテーマがある。
「”彼も人、我も人”の明確な事実の認識の下に」とあるが、自分の中は本当にそうなっているのだろうか?
実態として、自分の中で、自分や人がどのような存在になっているのだろうか?
「自分の意見も一つの意見としてあり、人の意見も一つの意見としてある」、つまり、人の意見も自分の意見も同列になっている状態になっているのだろうか?
もし、そうなっていないのなら、その中身・原因、そのメカニズムを解明しないと、頭で「一人一人は異う」とか、「彼も人、我も人」と言っていても、どうにもならないのだろう。

本当に自由な世界が現われて来る上でも、大事な出発点になるテーマだと思う。
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