「完全専門分業」を探る メモ②

すごく繁盛している戸隠そばの御主人は、自分の持ち場である蕎麦打ちに専念していて、一日の蕎麦を打ち終わると、店が昼の超混雑をしている時には、仕事を終え、くつろいでいるという姿が紹介されていた。持ち場に専念して、そこを極め、高いレベルの職人の仕事をしている姿なのだろう。
専念している姿としての専門分業というのは、今の社会の中にもたくさん実例があるのだろう。
が、完全専門分業というのは、どういう成り立ちなのだろう?
この御主人が専念できているというのもどういう要素で成り立っているのか、と見ていくと、完全とは言えないものが出てくるのだろう。
お金で雇っている関係であるとか、決められた固定した関係であるとか、義務・権利というような位置付けで、自分の持分をやっていれば休む権利があるというような成り立ちなのかもしれない。(検べていないので実際はどうか分からないが)
そう考えていくと、持ち味の場に就くとか、持ち場を探るという前に、やはり我のない、囲いや境のない状態に成り合った人同士の関係というのが先にあるというのが、完全専門分業社会のベースなのではないかと見えてくる。そこがあって、それから持ち味の場に就いていくという順序になるのだろう。

養鶏書の一節に「求められる雛を造る事のみを考えて専念して居れば、質の事や値段の事等を一口も云わなく共、必ずその種卵は認められて、安く売ろうとしても、買う方が種鶏家を栄えさす値段にするものです。」とあるが、ここも完全専門分業に繋がるあり方を記してあるようだ。
この「求められる」というのもどういうものなのだろう?
「売れる」=「求められる」ではないだろう。(このへんを勘違いしやすのかも)
一時的な流行とか、ブームとかとは異った、本来の「求められる」ものがあるのだろう。
社会の本来の姿を知り、繋がりを知り、そのやることの目的を知ることから、「求められる」ものが観えてくるのだろう。
先ずは、そこを知ることから始まるのだろう。
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