「完全専門分業」を探る メモ①

経済研究会として、しばらく「完全専門分業」について探っていこうということになった。今まであまりまともに向き合って検べてみた事がない。かなり浅い理解しかしてないテーマ。
今日はその第一回目。そこで考えたことなどをちょっとメモ。

今の社会も、実際は分業で成り立っている。殆ど全てと言っていいくらい、暮らしていくのには他の人にやってもらっていることばかりだ。様々な仕事、役割があり、それの組みあわせ、つながりの中で生きている。
しかし、それでは、完全専門分業社会とは言えないと思う。
今の社会の分業と、完全専門分業社会との異いから考えみると、何かが観えてくるかもしれない。

今の社会通念だと、実態としてある分業で成り立つ世界、社会が観えなくなりやすいようだ。観えない人も多い。
よく出される例だが、お金を出して家を建ててもらっても、「自分が建てた」とという意識になる。お金を出して買うという行為で、何かをしたり、得たりすると、分業で成り立つ社会が消えて、「自分が買った」、「自分でした」という意識に変換されてしまう作用がありそうだ。これはもう一つ、探っていきたいテーマ。
「自分のことは自分でやる」という観念も大きいかもしれない。境ができる。それとお金という仕組みが絡んで、「自分で暮らす」、「自分で生きる」、「家族で成り立たせる」となる。実際は、自分ひとりや、家族だけで成り立つはずもないのに、「自分で生計を立てる」とか、「家族を守る」とかいった観念で、それが事実、実態かのように観念づく。分業社会が見えるわけがない。

「完全」ということも探ってみた。「完全」とは?
やはり、これは人間とか、社会の「本来の姿」のことではないだろうか。
それが完全であるといいうことかなぁ。
怒りや疑いや一切介在しない。境が一切ない。
報酬や見返りが一切ない。
規則や決まりや、縛りが一切ない。
そういう人間の本来の姿から外れる要素が一切ない。
そういう完全な姿。

持ち味が生かされている、専念できる、そのことに打ち込んでいる、そういう姿も一つの現われだろうが、その前に、完全な社会というか、完全な=本来の姿になっている=復帰しているという状態が先にあってこそ、という順序があるようだ。

専門分業ということとは、ちょっと離れるかもしれないが、完全ということも、
現状から観るものではなく、本来から観るというのも、もっとはっきり検討してみたいテーマ。
改良ではなく、完全、本来を見出し、そこを実現しようとするもの。
例えば、病気はないのが完全。災害はないのが本来。
現状から少しでも良くしようというのと、本来を見出しそこに向かっていこうというのは、行為は似てても、全く異なるもの。
この異い、実は決定的かもしれない。

今日は、これくらい。
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