我執の研究④

観念が変わることは、現象界の変化でも起るし、思い込みでも、勘違いでも、変わることがある。
もちろん、観念の転換から現象界も大きく変わるわけで、正常な観念への転換は必要なことだろうし、正常な観念になるようにというのは大事なことなのかもしれない。

しかし、この「観念の転換」の中身も、もう少し慎重に検べていかないと、何による転換なのか、また、転換したものを持ってしまっても、単なる持ち替えというだけで、正常な観念にはならないことになってしまう。
持ってしまうというのでは、例えば、「誰かのもの」という観念から「誰のものでもない」という観念になったとしても、「誰のものでもない」というのを観念的に持つようになってしまったら、「誰かのもの」という観念と同次元のもの。
どういう観念になるか、というところに焦点を当てると、結局、持つというところでは変らない。つまり、我執の観念のままなのではないだろうか。
こういう観念の転換という現象的なところに焦点が当たると、「怖い豚」が「怖くなくなる」と転換したり、「残れない」と思っていた人が、「残れます」という変化があると、それでよかったという風になってしまう。
何で観念が変り、現象が変ったのか?
観念の変化は、いろんな要素で変り得る。それで我執が取れたのか、我執がついのたか、見極める必要があると思う。

どういう風な観念になったか、というよりも、どういう中身で考えていけたか、検べていけたか、そこに実質があるように思う。
怖いでも、すきでも、残れても、残れなくても、どういう中身でそうなっているのか、どういう風に考えているのか、そこを検べていこうとなる自体が、執われから、もう既に放れはじめているのだろうし、検べることで、どいうことでそうなっているのか、そのメカニズムが見えてくるのだろう。見えてきたら、それをどうするか・・・は、自ずと明らかになるのだろう。見えないうちに、どうこうしようなどとする必要はないのだろう。

客観的に検べられる状態=我執から放れている状態とも言えるのだろうか。
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