我執の研究③

人間の認識を考えてみる。
脳科学の研究にあるように、自分の脳の中にあるものしか認知できないとすると、事実を見るといっても、事実に反応している脳の視覚の認知作用を、意識(自己とか、ホムンクルスルスとかいうが、これも脳の作用)というものが、綜合して認識したものが、「見る」ということになるのだろう。
その綜合するという中に、事実に反応しているものと、過去の経験や様々な知識や考え方が合わさって、認識が形成されていくようだ。
見るとか、聞くとか、事実を知ると言っても、結局、実際に反応しているものとと自分の中にあるものの混合物であるということでしかない。
人間の認識というものは、そういうものであるという自覚。
そこがないところから、執われが始まるようである。
認識したことが事実であるとうい勘違い。そこが思い込みのベースになる。(思い込みという自覚もできない)

脳の中にあるものしか認知できないということはそうなのだろうが、それを知った上で、事実に反応しているものを、できるだけそのまま見ようとする、つまり、主観的なものをできるだけ取り除いて、見ようとすることはできるだろう。事実に反応する脳の認知機能はなかなか精巧に出来ていると思われる。その能力も、主観的なものを外すことで、もっと活かせるのだろう。
また、感覚、そこからの認識、そこからの判断、そして様々な思考等の脳の中のいろいろなプロセスも、ある程度、客観的に見ることとも出来る能力が、人間にはあるようだ。そこを見ることで、無理のあるもの、間違った思考回路などは、検出、訂正することも出来るのだろう。

人間の認識はどういうものかを知り、その限界も知った上で、できるだけ、事実、実際に即していこうとすることで、観念に振り回されない生き方が出来るのだろう。
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