内観 考察メモ⑦

内観という方法で自分を調べることによって、色々な気づきもあり、自分の成り立ちや、自分というものが観えてくる。

しかし、「世話になったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」という観点で、自分を調べるわけだが、こういう視点に対しての、検討はない。今の自分の持っている観念を物差しにして、自分を調べることになる。
だから、例えば、迷惑ということがどういうことかは、言ってみると常識的な物差しのまま調べている場合もあるということになる。
内観も、本当に深いところまで行くと、そういう常識的なところに止まらない深い世界に行き着くこともあるようだが、浅い段階では、常識的な観点で調べている場合もあるのではないか、と思った。

また、観えてきたことでも、それをどのように捉えるのかというのでは、検証作業が要るのだろうと思った。
世話になった事実がどんどん見え出し、して返したことがあまりにもない事実にも驚き、迷惑のかけどうしの実際の姿が見えてくると、親に対してなど、なんとも言えない気持になってきたりする場合がある。が、これを感謝とか、それに対して恩を返すといった、既成の観念で捉え、理解していくと、感謝・報恩といった類の話しになってしまう。
本当の意味での感謝、報恩というのは、深い意味があるのかもしれないが、そこを常識的な理解・把握で終わると、せっかくの内観で観えてきた姿、そこから湧いてくる本来的な情の流れが、「感謝は大事だ」などというありきたりな道徳論に堕す可能性もあるのだろう、と思った。
観えてきたこと、そこから湧いてきたこと、そしてそれの捉え方など、その人なりの理解・把握ではなく、検討してこそ、内観で観えたことが生かされるのではないか。

また、観えた、分かったと固定する傾向も、観念自体を検べたりすることはないので、そのへんは、その人任せの方法になってしまう。
もちろん、内観一週間で完成と言うのではなく、日常的に内観をしてこそ、ということらしいので、もっと深い内観をすることで、固定したり、観えたことを持ったりというのはならないのかもしれないが、自分の観念自体を検べるというのでは、研鑽という方法が不可欠なのではないかと思った。

内観で自分を調べる、自分を見る姿勢を作る、生育歴をハッキリ見て整理する、自分の成り立ち、世界の成り立ちを知るという要素は出来るのだろうと思うが、それは研鑽できる心の状態になるという感じかもしれない。
そこから、真の人間の知能を活用して、真理・真実を検べ探求する考え方が、本領発揮で働き出すのかもしれない。
生涯学究制と内観法について | - | -