内観 考察メモ⑥

内観研修の方法面についての考察

いろいろ、目新しくも感じたし、方法的にも、いろいろ考える刺激があった。

・テープの活用
食事の時に、色んなテープが流れた。
創設者の吉本さんの内観とはどういうものかという話や、心療内科や精神科の医者から見た内観の意義や、色んな人の内観の面接の録音記録(中には、絶食・不眠の人の取り組む姿も)や、死刑囚の内観での転換(それでも結局死刑になるのだが)や、前科10犯のやくざの組長が内観で転換した実例や、出所後の経過の話や、内観研修を終えての座談会の録音など、様々なテープが流れた。一日3回で、30分以上の長さのものが多かったように思う。
面接者は、ほとんど指示的な要素を出さずにいたが、テープを聞くことで、内観とはどういうものかを考える要素を掴もうとしたり、どのように内観をしていくのかを、幾人かの例を参考に考えていった感じがする。
座談会の内容も、特に素晴らしいというものでもなくて、全然駄目だったという人の話も含めて、そのまま紹介されていて、自ら掴み取っていくような印象は受けた。
内観に対する意欲も、テープから影響されていった感じもある。
後半、自分の内観に対する意欲が強くなってきた時には、テープが長くて、うるさいと感じる場面もあった。
研鑚セミナーや合宿研の後に、感想文もいいけど、匿名で録音をとっておいたら、いろいろ活用できるかも。
恩田さんが、息子のセミナーの感想をメモってくれてブログに書いているけど、直接さとし君の言葉が聴けたら、もっと響くものもあるだろな、って思う。
テープは最大に役立たせているなとちょっと感心。

しゃべらない環境
考察メモ④にも書いたが、自分を見つめるということと、それを言語化するというのと、二つの作業がある。
どうも、日常は、自分を見つめるというのは薄く、言語化することの方が活発というような、中身もなく言葉だけが飛び交うようなそんな日常があるのかな。
本来は、自分の中身があって、それを表現する手段としての言葉ということなのだろうが、現代は中身とは切り離された言葉が横行し、ウソ、偽り、売らんがための言葉など、言葉と心が切り離されたような社会になってきているのかもしれない。
昔は、言霊(ことだま)といって、言葉には魂が篭っているというような感じだったらしい。
自分を見つめる・・これには言葉は要らない。が、それを客観視したり、人に伝えようとするには、言葉が要る。
しかし、先ずは、自分を見つめる。自分を調べる。周囲の人に対する自分を調べる。そこから始まって、その後に、それを人に伝えたり、そのこと自体を調べるために言語化する。そういう順序を考える時に、やはり、日頃、自分の実態とは異う言葉を使うことに慣れている人には、「しゃべらない」という環境は大事なのかもしれない。
自分もそうだったが、自分が少し見れるようになると、どうそれを面接者に伝えようか・・という意識が働き始め、自分を見る作業が飛んでしまったりしていた。
しゃべろうと思うと、緊張したり、どう思われるかが気になる人もいると聞く。
しゃべる前の、実際の自分を見つめるというのが先ずは基本で、その後に表現というのが順番なんだろう。
そのへんが整理されないうちは、しゃべらないというのも大事な要素なのかもしれない。
今の合宿コースやセミナーでも、しゃべる前に、しゃべらないで自分を見つめる、自分ひとりで自分に問うという要素を入れているようだが、その辺の大事さを認識しながら、言語化し、検討しながら進むという要素のもつ大事さも織り込みながら検べていくことが必要なのだろう。

匿名性
内観研修に来た人同士は、まったく会話が無い。最初のオリエンテーションと最終日の座談会で顔を会わすだけ。(男の人は、もう少し接触があったり、同室で屏風の中にいたので、面接者との面談はそれなりに聞こえてくる)女の人とは、一階と二階で別れているので、最初と最後だけ。自己紹介もない。最後の座談会も、年齢と性別のみ。
自分の立場や過去の経歴を調べる上では、こういう匿名性は、調べやすい要素なのだろうか?確かに、そういう立場や地位などを考えていたり、執われていると、純粋に自分を調べにくいのかもしれない。そういうのを持っている人からすると、自分が誰か、どういう立場かというのから離れて調べるというのが気楽なのだろうか?
今度、生涯学究制の予科の一要素として、内観コースを試験的にやってみるが、そこでは匿名性はない。知った人同士だから。
このへんは、どんな感じなのかな・・・?
本質的要素と、二次的要素とあるような感じかな。
匿名性というのは二次的要素だなと、書きながら思った。
でも、方法的には、そういう要素を加味しながら考えていくのがいいのかもしれない。そうなりやすいという意味で。

施設面、暮し面
一週間、屏風の中に篭って・・・ということでは、質素な修業的な環境を思い浮かべていったが、施設は非常に立派で、床暖房で、屏風の上には照明もあり、食事も豪華ではないが心のこもったなかなかの食事で、布団も風呂もトイレもかなり上等なものだった。かなり快適なものだった。
障害者やお年寄りも来るということで考えられているようだったが・・・
目的から、はっきりと割り出されているのだろうなぁ・・・

面接、面接者
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