生涯学究制の充実に向けて実験・研究

2月2日の「生涯学究制 構想メモ」の中でも触れたが、生涯学究制の中で、学究の前手というか、検討できる状態になるための基礎的な場を研究し、実施していけるようにもっていきたいと思っている。

以前、よくあったことだが、長期の検討機会で、自分を見つめる中で、育ちの過程などで傷ついた心の部分が浮き彫りになる人が出て、その人がそこを出さずにはいられず、そのことを吐露するような場面がある。1時間とか、長い時は、3時間くらいにもなったりすることもあった。
その人にとっては、出せたことの開放感はあるのだろうが、それだけで心の傷か癒され、整理され、検べれる状態になるわけでもないのだろう。一方、他の参加者は、その間じっと聴くことで、共感したり、一緒に考えたりすることもできるのだろうが、自分のことは検べられる機会ではなくなってしまう。
心の傷になっている部分、冷静に考えれないような部分、病的になっている部分については、別途、専門的に手がけないと、本人も、周囲の人も、中途半端になってしまうのではないか、という問題意識は、ずっとあった。

また、「本当はどうか」と探っていくためにも、その前手に、そういう部分を解決しておかないと、「本当は」と考えていこうとしても、どうしても心がついていかないというか、無理な心の状態になるというのも多々あるようだ。

生涯学究制が、会員申し込みを始め、単発的に合宿コースに参加するというものから、生涯を学究生活で送っていくという制度であるということがはっきり位置づけられる中で、そのような心の傷というような部分を解決していける場が、生涯学究制の中で必要だということが浮き彫りになってきた。

そういう分野を手がけるということもあり、明日から一週間、奈良にある大和内観研修所に行ってくることにした。

一週間、一人で自分に向き合い、自分の過去の歴史を
(1)お世話になったこと
(2)して差し上げたこと
(3)ご迷惑をかけたこと
この3つの観点から調べていくという場らしい。

自分自身も、そこに研修生として、自分の成育歴を純粋に検べてみようと思っている。
そして、自分を実験台にしてみたいと思う。
その上で、先ずは二人の実例を元に、自分の成育歴を検べるということの意味はどういうことなのか、また、そこを検べるテーマとして、この三つの問いはどうなんだろうか、とか、その検べ方についての方法はどういうのが適切なのか、などを研究する材料にしたいと思う。
生涯学究制度の中で、そういう要素が、どのように位置づけられ、どのような機会を設けていくのがいいのかを検討する材料にしていきたいと思う。
内観研修も、生涯学究制度のプログラムの一要素として取り入れられるのか、または、自分達で長太会場を使って、そのような要素を取り入れた新しいプログラムを開発していくのか、また、併用していくのか、それらも、帰ってきてから、色々な角度で検討していきたいと思っている。
生涯学究制と内観法について | - | -