宗教と不幸

ここでいう「宗教」とは、「自分の考えを信じて自覚のない状態」のこと。
このことは、今までに何度も取り上げていて、今さら・・・という感じもするけど、
誰も望まない「怒りや争い」を無くせず、願っている「平和や幸福」に立ち還れない最大原因であるとの認識が、まだまだ薄いのかもしれない。
悩み・苦しみ・不幸・不安から抜け出したくて、それの原因を知ろうとしないで、宗教にすがる。それは、麻薬におかされ、そこから抜け出したい一心で、また麻薬にすがるようなもの。
「これだ」というものを持ちたい一心で求めている。
「これだ」というものを持ちたい原因を知ろうとしない。それを当たり前としている。

「豚肉を食べない」とか「輸血をしない」とかを聞くと、何かを信じ込んでいる宗教だと言うけど、
じゃあ、身近なところで時々お目にかかる、「この食品は食べない」とか「この薬は使わない」とか言う人の場合はどうだろう。
「豚肉や輸血の例とは違う」「これには科学的な根拠がある」とか「実際に体に良くない」とか、
ま顔で本気でそう思ってるみたい~。これこそ、自覚のない宗教の始まり。
「これは環境にいい」とか「これは体にいい」とか「これを使えば良くなる」とか「この先生は確かだ」とか・・・、自分が信じるだけでは足りなくて、人に教えたり勧めたりする。
「これだ」というものを持ちたい人が、「これだ」というものを見つけた時は、実に憐れというか、おそろしい。そのことをスゴク大事にするし、そのことをけなされると怒り出す。

飛び抜けて良いものに出会ったり、画期的な効果があったり、特に心や体に画期的な変化が見られると、「スゴイ これだ」となって、信仰に入っていく。
当人は自覚ない。「実際にそうなんだから・・・」となっている。
効果や変化があったのは実際かもしれないけど、それで、「これだ」と、持ち上げてあがめる。人でも「すごい人だ」と、持ち上げてあがめている。ただの人間なのにね。
一旦 持ち上げると、それ以降、その人やその物に対する見方が違ってくる。
‘過去’にスゴイと感じた人や物に対して、自分の中で持ち上げた状態で、‘今’のその人やその物を見ている。 何かそういうものを持って安心したいんだろうね。

人でも物でも事柄でも、一旦 「これは良い」となると、「良いもの」として、人に教えたり勧めたりする。 「これは悪い」となると、「悪いもの」として、人に教えたりする。
マルクス氏の宗教はアヘンとの言葉は、よく言い当ててると思う。
(真意は知らないけど・・・ね)⇒⇒ ‘しんぶん赤旗’の解説
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