自分の状態を知らない

「自分を知る」というアプローチを何度繰り返していても・・・、
自分の状態を分かっているつもりの人は、それ以上「自分を知る」をやれない。
やれないけど、分かっているつもりになっているからか、先へ先へと進もうとする。
なぜ、「自分の状態を分かっている」つもりになるか、というと・・・

理解と自覚
「自分の感覚である」「自分の捉えたことである」という理解はしていても、自覚にまで至っていない頭で理解すると、「分かっている・自覚している」と思ってしまうのかな?

「甘いリンゴだ」と思っている自分を調べると、それは自分の感覚だということが理解できる。(これくらいのことは誰でも分かる)
そうすると、それ以降は、「甘いリンゴだ」と思うのは、「自分の感覚なんだ」という意識になる。これは頭の理解。
意識上では、リンゴのことではなくて、「自分の感覚なんだ」と思うことはできるが、「甘いリンゴだ」として捉えている自分の状態は何も変わっていない。
人の発言を聞いて「批判している」と捉える。
でもそれは、「批判していると自分が捉えているんだ」ということは分かる。
意識上で、いくら「自分がそう捉えているんだ」と思っても、「批判している」と捉えている自分の状態が変わる筈がない。
※ 意識上で、「それは自分の感覚なんだ」「自分がそう捉えているんだ」ということが
理解できたからといって、捉え方が変わるものではない。

自覚とは「自分の状態をハッキリ知る」という意味で、知識的理解や「そうだ」と思い込んで言い聞かせることではなく、「自分の状態に気づく」ことである。
自覚する(知る・気づく)ことが、思考・言動・感情などの元をなす「心の状態」に大きく影響する。
つまり、ここでいう「自覚があるか・ないか」との表現は、「自覚がある心の状態」か「自覚がない心の状態」か、という意味で用いている。
 P88

思い主導(意識上の事実化)
頭で理解したり、思いや意識が変わったりすると、自分の状態がそうなったようなつもりになる人。それは、思いや意識どおりの「自分」になっているかのように自分を錯覚(事実化)しているのだろう。
つまり、「それは自分の感覚なんだ」「自分がそう捉えているんだ」と頭で思って、口で言っているにすぎない。・・・いわゆる 口頭ジカク
「リンゴの捉え方」「人の発言の捉え方」は何も変わっていない。
「それは自分の感覚なんだ」「自分がそう捉えているんだ」という理屈を知り、そういう思いや意識で、自分の状態を分かっているつもりになっているとしたら、理屈を知ることは却って大きな弊害だと思う。
「自覚」ということを知ろうとしないで、分かったつもりになって、次へ行こうとしているのか・・・。
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