自分の状態を知る

「自分の状態を知る」と言っても、「知ろう」とすれば、できるというものでもない。
「自分の状態を知る」ということを培わないで長年生きてきて、いきなり「知ろう」としてもね。
「自分の状態を知ろうとする状態」が、先ず要るよな。ややこしいかな。
「自分の状態を知ろうする意識」ではなく、「知ろうとする状態」が必要。
自分に、そういう状態があるか、どうか。
そういう状態がないのに、意識で知ろう知ろうとしても、「つけやいば」ではムリ。
「自分の感覚であるとの自覚」がないことから来るキメつけが日常生活の中でどんなに多いか、自分や人の言動を観察すると面白い。
○○のラーメンは旨い、○○のお店は安い、○○さんは賢い、○○さんは働き者だ、・・・・
「自分の感覚であるとの自覚」がない人は、客観的事実を言っているつもりかもしれない。
 P88
「太陽が動いている」と言ってもいいけど、そう言っている自分の状態に関心があるかどうか。
 (これが自覚があるかどうかということ)
経営のこと、お金のこと、人のこと、職場のこと・・・、何を言っても、自分の表明でしょ。
自分を言い表わしてるんだからねぇ~。そういう自覚があるかどうかということ。
ここでいう「自覚があるか・ないか」との表現は、「自覚がある心の状態」か「自覚がない心の状態」か、という意味で用いている。 P88
誰かとの話し合いの時も、話の内容もあるけど、それよりも関心あるのは・・・、
「この人は自分の状態に関心があって喋ってるのかなぁー」
サイエンズカフェ にしても・・・、
書いてあることを読んでるようだけど、「自分の状態」を読んでる人かどうかに関心があります。
言ってること、やってること、に関心がある訳じゃない。
「自分の状態」に関心がある人かどうか、に関心があるんです。
自覚が伴わないと、話し合っているようでも、本当には通じ合わない。

「自分の状態を知る」ということを、何故こんなにも繰り返し叫ぶのか、というと・・・
幼少期なら当然、自覚する能力は少ないだろうし、知力・体力なども小さいから周囲で保護して育てる必要があるけど・・・、自覚の成長が少ないまま成人して、知識や能力が大きくなると・・・、知識や能力を振り回して、他の考えを受け入れず、我を通そうとしたり、人に指し図したり、人と対抗したり・・・、
自分を見るよりも、外のものばかり見る体質になる。(自信・慢心)
知識・能力が高いほど、周囲へ多大な影響を及ぼす。(幅る・他を侵す)
今の社会では、道徳やモラル、法律やルールに則っていれば、自己優先でも、他を蹴落としても、人に命令しても、低い人を蔑んでも、自慢しても、対立闘争しても、問題にされない。(他を侵し、幅っているのに、スゴイなぁ、頑張ってるなぁと、ほめ讃えたりしてる)
ますます、自分を知らない 知識や能力の高い人が幅を効かす。
※こういう傾向は、小学生くらいからハッキリ現われていると思うけど、軽く見過ごしているから、歳を経るほど手がつけられない位に大変になってくる。

※組織や団体でも、小さい時は問題にならないが、大きくなって調子に乗ってくると手がつけられなくなる。そうなってから内面を正そうとしても、自らの組織や団体の状態を知るすべを持たないから、外的な力で抑制するしか手がない。

「知らぬが仏」「知らぬということは恐ろしい」
自分の状態を知ったら、とても、言えない、やれない、だろうに・・・、
自分の状態を知らないが故に、言っていられる、やっていられる。
「自覚」といっても自分に言い聞かせるようなのは「自覚」ではない。
それは、教育や躾け、規則や罰則など、外のもので人を律しようとする行き方。
自分の状態を知ろうとする「自覚」を育てて行けば、そういうものが要らなくなる。

最後に・・・、少し現象的に言うと・・・(現象面は中身ではないよ)
自分が言ったりやったりしてることなんて間違い多いに決まってるんだから・・・、
そうしたら、自然と謙虚になるよね。自分の思いや考えで突っ走れないよね。
自分だけで自分の状態を知れるとも思わないから、人にも自分の状態を聞くよね。
そうなると・・・、私的に拘らないで、自分をオープンにしたくなるよね。
オープンにしてるつもりでも、本当にオープンな自分かどうか、自分の状態を知りたくなるよね。
そういう自分の状態を知ろうとする人たちの中で、自分の状態を知ろうとする人が育っていく。
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