理解と自覚

脳科学が進歩し、認識のメカニズムが解明されて、「物事の認識は個々の脳の中の作用である」との理屈は分かっているつもりでも、自覚にまで至っていない。 P88
つまり、見え方・聞こえ方・感じ方など、一人一人みな違うということぐらい小学生でも理解できるけど、周囲のおとな達が理屈を言うだけで、自覚にまで至ってないからねぇ。
「自分が捉えたものを事実だとしている。」 (この意味すら通じないかも・・・)

科学の分野じゃなくても、思想とか宗教とか・・・で、言ってることは真を突いていても、頭の理解で留まっていて、自覚にまで至っていないから、その人自身そうなっていかないよね。
レノンのイマジンでも、マッキーのオンリーワンでも・・・ね。
世界は一つ、みな繋がっている、人類みな兄弟、誰のものでもない、愛は世界を救う・・・etc.
最初に気付いた人、言い出しっぺ、教祖、創始者などは、自覚(悟り)があったとして・・・、
それを伝えたい気持ちも強いだろうけど・・・、書いたり喋ったりでは伝わらないと分かってても・・・、書いたり喋ったりするしか方法がなかった(知らなかった)んだろうな。
それで・・・、
読んだり、聞いたり、受け取った人は、「本当にそうだ!」と強く感動・共鳴・賛同すると、
読んだり聞いたりしたことで、自分が「気付いた」「理解した」「知った」気分になる。
  (体験や実感が強いと、心から自分がそうなった気分、自分もやれる気分になる。)
それをまた人に伝えたくなる。(自分はそうなってないのに、そうなったような気分で・・・)
かくして・・・、
そうなってないのに、そうなったような気分の人たちの集団ができる。(強い強い思い込み集団)

自覚とは「自分の状態をハッキリ知る」という意味で、知識的理解や「そうだ」と思い込んで言い聞かせることではなく、「自分の状態に気付く」ことである。 P88
子どもの頃から「理解と自覚」が共に培われるような育ちをすれば、何でもないことなんだけど、
知識理解ばかり先行して、自分の状態を知るということを殆どやらないまま歳を重ねて・・・、
そういう人間が知能を駆使して、せっかく真なるものを把握し得ても、自分の状態をなおざりにしているから、自分の状態が知恵や理解に伴っていかない。
自覚ない人が、頭で分かったことを振り回す姿は、いかに真面目で熱心でも、身の程を知らないというか、信心深いのも単なる頭デッカチというか、愚かで憐れで辱かしい・・・。
でも、今の世の中、知ってる(つもりの)人・分かってる(つもり)人、つまり自分の状態を知らない人が幅をきかせている。それは、表面的な言動になびく人が多いからだね・・・。
口頭禅とはよく言ったものだ。人間として最も大切な人格上の問題。

自覚する(知る・気付く)ことが、思考・言動・感情などの元をなす「心の状態」に大きく影響する。つまり、ここでいう「自覚があるか・ないか」との表現は、「自覚がある心の状態」か「自覚がない心の状態」か、という意味で用いている。 P88
自分を知り、人生を知り、社会を知り・・・
知りたい、やりたい、欲求は自然なものかもしれないけど・・・、
自分の状態を知らないで、先を知ったところで、何になるん?
身に合わないものを身に着けて、身の丈以上になった気分に浸りたい?
自分の状態を知って、自分が進まなければ、知っても、なんにもならん。
本当の「知る」にならんやろ。(知りたがりは自覚欠乏症・・・。)
自覚の解明と、そうなる方法(具現方式)まで来てる・・・こんなのどこにもないかも。
それを使わなかったら、宝の持ち腐れやで~。(宝っていう程のものでもないけど)
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