2.理知的能力を身に付け伸ばすこと

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心が落ち着いていて平静であることは、人間にとって重要な要素ではあるが、それだけがゴールではない。それを最終目標とする場合、絶対者の存在や何かを信じる信仰方式で容易に実現できるかもしれない。しかし正常、健康、真実に生きることを目的にする場合は、何かを信じきって疑わないこと自体が異常なことなので、信じる方式は採用しない。むしろ自分の考えで安易に信じたり疑ったりしないで、科学的、理知的能力を機能させるために、心をとりまく環境を整えるという意味である。

前述したように環境や行為を見直し、自覚を促すことなどにより、心の平静、平穏はある程度まで実現できる。しかしそれは起きてくる心の反応を表面的に処理している段階である。反応が生じるプロセスには手がついていないから、反応はたびたび起きる。起きてもそれが自分の思い(反応)であり、現実に気づくことで、貪欲や嫌悪などの過度な反応や妄想に発展したり、とらわれたりしにくくなるということ。反応が起きる状態にしたままでは、無意識のうちに感情が心の深層に抑え込まれることもあり、それが何かのきっかけで爆発的に噴出する可能性もある。雑草も根から抜かない限り、やがて芽が出る。

人間を正常、健康な状態に保つためには、からだ同様心の面についても、正常、健康な状態を知り、どこかに間違いや異常がないか常に観察し、あればその原因を見出して除去しなければならない。漠然とやっていたり、なんとなくでは実現しないもので、理知的能力を機能させる必要がある。心とからだは密接不離であり、からだのみでなく心の健康にも意識をむけ、客観的に科学すること。

心の正常、健康とはどのような状態だろうか?
心は様々な対象に対して反応を繰り返している。反応のプロセスとはどのようなものであり、間違いや異常はどのように入り込むのだろうか?

[心の反応のプロセス]
心が反応する対象は、現実の様々な現象、人の行為や言動、自分の考えや思い、記憶、感情、欲求などいろいろある。人間の感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心など)が対象と接触することで反応開始のスイッチが入る。接触がなければ対象は現実に存在していても認識されず反応は起こらない。自分にとっては存在していないに等しい。世界のあらゆるものに対して、今現在、この瞬間に自分の感覚器官で接触している部分しか認識されていないということ。ほんのちょっぴりだ。さらに感覚器官の機能も人間用の限界があり、もっと優れた機能を持つ生き物もある。またひとりひとり差があったり、体調や加齢により性能が変化したりもする。頼りきれないものだ。

接触により反応は始まる。例えば冬の朝屋外に出て「さぶ~」とからだを縮めたりするが、良く観察してみると、言動や行動の前に感覚があることに気づく。「寒い」という言葉で表現される前に空気と皮膚との接触があり、皮膚で感覚を感じている。からだの部分によりその感覚の度合いに差があったりもする。現実はそうなのだが、「寒い」という言葉と漠然とした印象しか意識にのぼらない。「寒い」という言葉には、過去の体験から獲得した様々な観念が入っていて、その時の感覚だけではない、意味付け、概念化が行われている。単純に言えば、寒いのは嫌なこと、嫌なことは避けたい、からだを丸めて小走りに部屋に戻ってストーブの前で固まる、というように反応は進んでいく。皮膚で感じた感覚そのものだけでなく、寒いことは嫌なことという過去の体験からの意味付けがその後の反応を促進させているようだ。

[感覚に気づく]
感覚とはどういうものだろうか?実際に自分で観察してみてほしい。例えばコーヒーでも飲みながら自分を観察してみると、「おいしい」「ああ、ほっこりする」などの前に様々な感覚があることに気づく。コップを持ったとき、ただよう香り、口に含んだとき、のどを通過していくとき....。瞬間的に発生して、すぐに変化し消える。感覚は感覚であり、そのものには意味も何もないようだ。「自分」とか「コーヒー」というのもない。自分で感覚に意味付けをして脚色を加え、快、不快の感覚を伴わせているという感じだろうか。しかし普段はその感覚に自分が意味付けしたり概念付けたりしているという自覚はほとんどない。

対象に感覚器官や心が接触して生まれる感覚そのものは自然なものだろう。しかし実際ある感覚には気づいていないことが多い。その感覚に快適なもの、不快なもの、好きなもの、嫌いなもの、正しいもの、間違ったものなど、意味付け、概念化して認識し、好きなものは欲しい、嫌いなものはいらないと反応していく。対象があり、感覚があり、それに自分で勝手に意味付けしているという自覚がないと、さらに反応は進行し、貪欲、執着や嫌悪、憎悪に発展していく。ここまで増幅した観念を何とか取り除こうとしても、それ自体は反応の結果であるのでとても難しい。また反応のプロセスの間違いや異常を除去しない限り、どんどん生まれてくる。自分を妄想の世界に引き込み、現実を見えなくし、真実からどんどん遠ざけていく。

まずは実際の自然な感覚に気づくこと。見たまま、聞いたまま、臭ったまま、味わったまま、触れたまま、感じたままの、意味付けられた概念や言葉に置き換わる前の、そのままの感覚を観察により気づくこと。「よく見る、そのまま見る」にしても、対象に集中するだけでなく、見たままの実際の感覚を観察し気づくことが必要である。それなしにいくら「よく見よう」としても、一瞬にして概念にすりかわり現実から遠ざかる。

[自分が意味付けているだけ]
そのあと感覚に意味や条件を付けるプロセスに入るが、自分が意味付けていることに気づくこと。自分が過去に体験した意味付けの引き出しから、その感覚に合ったものを取り出してラベルしているようなものだ。実際の感覚には気づかず、体験的に自分が思ったにすぎないことを事実あるかのごとく錯覚している。観察によりそのことに気づき自覚すること。意味付け、つまり思ったことは自分が思ったこととして、それを決めつけずに、どこまでも対象とそれに反応した感覚を観察で調べ気づくこと。

観察により、自分の感覚に気づき自覚すること。
観察により、自分の意味付けであることに気づき自覚すること。
自覚がないから決めつけが生じ、決めつけにより意味付け・概念化が強くなる。意味付け・概念化により心の盲目的反応が促進される。感情が伴ったとらわれや決めつけが生じる。この繰り返し。
この自覚により、盲目的反応の進行が止まる。心の癖を止める。
観察により、気づき自覚するための理知的能力を育てること。

自分を観察してみよう。世界を観察してみよう。
私と思っている「私」とは?世界と考えている「世界」とは?
意味付けされ、概念化される前の、そのままの「私」。そして「世界」。
からだも心も反応を繰り返し、一瞬もとどまってはいない。世界の現象も常に変化し続けている。人間の思いや考えで現実を切り取り、「私がやったこと」とか「私のもの」とかと意味付けているだけ。けっして固定し決めつけたりできないものではないだろうか。

[研鑽科学によって]
決めつけず、客観的に観察し調べるための科学的、理知的能力を「研鑽科学」という。科学的に調べるには、調べる対象が何か、それを観察でとらえたもの(感覚)は何か、そこから考えたり思ったりしたこと(概念)は何かというプロセスを正確に認識する必要がある。そのプロセスが見失われ、概念のみが大きくなる異常が発生することで決めつけが生じる。決めつけることで、見えているはずの事実が見えない。感じているはずの真実に気づかない、誤解している。決めつけることで、心の反応が盲目的に進行する異常プロセスが引き起こされる。決めつけのない研鑽科学により、からだの感覚や心の状態に気づき、本当の自分を知る。事実そのままや真理の法則に気づき、本当の世界を知る。研鑽科学により、事実は事実として、感覚は感覚として、意味付けや概念(思いや考え)はそれとして正しく認識され自覚することで、心の反応が正常なプロセスをたどる。事実や真実に則った正常、健康な心の状態で生きることができるようになる。

[理知的能力の育成]
では、どのようにして理知的能力を身に付けたらよいのだろうか?
今日までの学校教育の中では、人間として正常な理知的能力の育成を十分にやってきているとは言えない。知能の育成や心の平静を目的にしていても、知識や道徳などを覚え信じる方式を取り入れている場合が多く、結果的には、決めつけを異常とも思わない知識偏重人間を養成している。頭で理解しいろいろなことを知っているつもりでも、本当の自分が見えず、人が見えず、現実そのままを生きることができない。理知的能力の育成は、人間が正常、健康に生きていく上での基礎であり必須である思う。人間は他の動物にはない創造性豊かなすばらしい知能を持っているが、理知的能力を身に付けない限り、それを使いこなすことは難しいだろう。知能は使い方を間違うと危険でもある。今はたくさんのことを覚えるために学校等へ通って多くの時間と努力を費やしているが、理知的能力の育成にも同様な投資が必要だろう。環境を整備し時間をかけて意識を集中させ、練習を繰り返して着実に育てていかなければならない。またそのための理論や方法を研究・試験し、制度や機構を確立して、積極的に推進していく必要がある。そのための社会的な試みとして、人間社会科学研究所{注4}では研鑚科学に焦点を当てて人間や社会の本質について研究を進めている。また生涯学究制{注5}では、理知的生活ができるようになるために、その方法についても具体的、実際的な試験を繰り返しながら、検討を積み重ねている。理知的能力を育成するには、その人の段階に合った研修機会に参加しながら、適切な環境とプログラムのもとで、確実にやっていくことがもっとも効果的と考えられる。
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