やさしい社会  そのままの私で

第40回 研究所サロン


はじめに
誰もが自分らしさを発揮して伸び伸びと生きたい
自分らしく伸び伸びと生きるということは、自分らしさを認めて、協力や応援があって、
喜んでくれる周囲の人たちがいてこそ、本当に伸び伸びと生きられる
「周囲の人たち」、「環境」、「社会」が、とても大切
自分らしく伸び伸びと生きるには、そのベースに、「安心・満足していること」
それには、先ず、そのままの私を「駄目だとしない」「認めて受け容れる」周囲・環境
自分で自分を駄目だとしない、認めるという面と、やはり、社会や周囲の人の要素が大きい
また一方では、
「そのままでよい」というのは安心で心地よいが、成長するためには「そのままではいけない」
努力や苦労、頑張りや辛抱がなければ、進歩・成長しないという考えも、かなり強い。

でも、やはり・・・、
「そのままの私で」という安心・快適のうちに、伸び伸びと、自分らしく、進歩・成長する人の姿
それが本当に人間らしい姿・生き方だと思うのです


やさしさだけではいけない社会
 ▽ そのままではいけないという考え
 ▽ 身を守ろうとする動物的性質
 ▽ 自分を守ろうとする人間の性質
 ▽ そのままではいけない社会
▽ そのままではいけないという考え
今の社会には、「してはならないこと」、「しなければならないこと」が、とてもたくさんありますね。「してはならないこと」をしていると「いけない」。「しなければならないこと」をしないと「いけない」 つまり、「そのままではいけない」
赤ちゃんは、何をしてもよいし、何もしなくてもよい。
そのままを否定なしで、受け容れてもらえる状態
いつから? なぜ? 「してはならない人」「しなければならない人」に?
赤ちゃんは、やりたい放題、わがままし放題
そして、一つ一つ物事を知り、成長していくように、見守ったり応援したりする
「赤ちゃんそのもの」の成長を見ている
「してはならないこと」、「しなければならないこと」を基準に、「それでいい人」「いけない人」にしてしまう。「その人そのもの」を見ていない
その人が良くなることや成長を願っているとしても、今のその人を否定したり、認めていないことが多い。
現実に存在しているその人(その子)を「そのままではいけない」と、見ている。
そのままではいけないという見方は、「現実に存在している人の現状否定」

なぜ、人の現状を認めようとしないのか、なぜ、人の現状を否定する必要があるのか
そこに、人や社会の問題を解く大きな鍵がある
1.そのままではいけないのか
誰もが、今より良くしたい、良くなりたい。 悪くしたい、悪くなりたい、と思う人はいない
「より良くしたい、より良くなりたい」欲求や願望
「良くしなければ、良くならなければならない」という思いや考え
同じもののように捉えやすいが、別のもの
「良くしたい・良くなりたい」だけでは不十分で、
「良くしなければ、良くならなければならない」と強く思うことを大事にしている
「しなければならない」という思いや考えを、行動の原動力にしている
「良くしなければ、良くならなければならない」は、欲求や願望ではなく
「そのままではいけない」という現状否定の考え方
「良くしなければ、良くならなければならない」「そのままではいけない」などを
自分の中からの欲求や願望だと思ってしまいがち
赤ちゃんが言葉を覚えたり、立って歩こうとしたり、でも、「覚えなければ、立たなければならない」「そのままではいけない」なんていう考えはない
周囲のおとなや親が、「そのままではいけない」と、教えたりするのは、その子への大きな負担

2.やりたい と やらねば の違い
「より良くしたい」「より良くなりたい」欲求や願望と
「そのままではいけない」という現状否定の考えは、別のもの
「勉強しなければ、成績を上げなければ」「業績を伸ばさなければ」
政治家の答弁も「しなければならないこと」だらけ
本当に、「やりたい」気持ちでやってるのかな?
遊びたい一心で、遊ぶとき・・・、
「そのままではいけない・もっと遊ばなければ」などとは思わないでしょう。
やりたい気持ちだけで、勉強する、スポーツや芸術をやる、仕事をする、というのが、純粋な人の姿だと思うし、みなそうあって欲しい。
「現状のままではいけない」から、「やらなければならない」という考えは、
その人の本当の「やりたい気持ち」とは別のもの
「やらなければならない」という強い考えや意志で行動していると、責任感や使命感があって立派に見えたりするが、本当に自分の中の「やりたい気持ち」からの行動なのか、不自然さを感じる。
「そのままではいけない」という考えからくる、「やらなければならない」という考えは、人に対しても、「やらなければならない」と強いる
◎現状そのままを認め合っていて、やりたいという気持ちでやろうとするのと、
◎現状のままではいけないから、やらなければならないと思ってやろうとするのと、
この両者の違いはとても大きいと思うのです。
日々の自分の暮らしは、どうでしょうか?
国際情勢や政治問題などは、どうでしょうか?

▽ 身を守ろうとする動物的性質
動物には生きようとする本能があり、獲物をとって食べたり、水を飲んだり、眠ったり、寒さ暑さをしのいだりしている。それと・・・、身の危険を感知して、身を守ろうともする。
何万年という進化を経て、その種独特の生態が形成される。
餌を獲ったり、身を守ることも遺伝的に具わっている。どんな動物にも、元々具わっているであろう、生きるために身を守ろうとする性質について考えてみましょう。
1.危険を感知して身を守る
身を守ろうとするのは、「危険を感知する」から。
逃げたり隠れたり、生まれながらにして、天敵から身を守る方法を具えている。
体の表面が保護色の動物もいる。
生息する環境に応じて、危険を感知して、代を重ねるうちに、環境に合わせて身を守る生態。人間も、生まれながらにして危険を感知する能力
人間の場合、「怖い」という恐怖心。恐怖心は、自分の身に危険を感じるからだろう。
断崖絶壁に立ったり、蛇や猛獣に遭ったり、強い地震や台風など、怖いと感じることがある。それらも、人間に生まれながらに具わっている「危険を感知する」能力ではないだろうか。

2.他を攻撃をするのは、なぜか
先ず、「戦い」とか「攻撃」ということについて
動物は、「戦うもの・攻撃するもの」というイメージ ホントにそうなの?
なんの理由もなく、戦ったり攻撃したりするのか?
元々は、戦う必要も、攻撃する必要もないはず。人間も、争ったり、他を攻撃したりする必要は、どこにもない。考えれてみれば当り前。でも、案外見落とされ易く、人間も動物も、「争うもの」、「攻撃し合うもの」という観念が強い。
少なくとも人間なら、争いたくて争う人、攻撃したくて攻撃する人はいない
では・・・、動物も人間も、なぜ争ったり、攻撃したりするのか?
やはり、危険を感知して、「身を守ろうとする」から。
蜂は針で刺したり、毒を放ったり、熊は山の中で人に出会うと、人に襲いかかる。エサを食べているところへ手を出すと、噛みつく犬・・・。
【 攻撃ではない例 】
ライオンがシマウマを襲うのは、必要な食糧の確保
「危険を感知して身を守るための攻撃」ではない
他にも、食べるために襲う動物はたくさんある。これは争いでもないし、攻撃でもない
人が魚を獲るのも「身を守るための攻撃」ではない。

【 熊や犬の例で 】 熊は人を食べたいわけではないだろう。犬は手に噛みつきたいわけではないだろう。「他を攻撃する」というのは、「危険を感知して、身を守ろうとする」本能的な性質の現われではないだろうか

3.先天的なものと後天的なもの
【 危険を感知する先天的なもの 】
人間が、断崖絶壁や猛獣を怖いと感じる。熊が人を襲ったり、犬が人の手に噛みついたり、虫や鳥や魚など、近づくだけで、サッと逃げる。
熊に危害を加えようとしていないのに、熊は逃げたり、襲ってきたりする。
実際に、危険かどうかに関わらず、何か、「危険だと感じる」ようになっているのだろう
【 危険を感知する後天的なもの 】
人に危害を受けた体験から、人に危険を感じる
実際には、人が近づくことは危険でもないのに、後天的な体験で、危険だと感じるようになっている。(熊の例のように、先天的なものの場合もある)
飼い犬が、人を警戒したり襲ったりするのは、
人に危害を受けた体験から、常に何か身の危険を案じて警戒しているのかも・・・
人が人に対して、怖いと感じたり、警戒したり、みな後天的なものだろう。
争ったり、他を攻撃したりするのは、危険だと感じて、自分を守ろうとしているから。
実際には、危険でもなんでもないのに、怖がったり、警戒したり、疑ったり、という人間。
なぜ、人が人に対しての「危険」「恐怖」「警戒」の対象になってしまうのでしょう?

4.危険のない環境にいると
危険のない環境で、代を重ねて、その環境に応じた生態になっていく
暮しぶりや体つきまで、環境によって変わっていく
例えば・・・、楽園のような地に棲む動物は身を守る必要もない。カラフルで鮮やかな羽毛で異性の気を惹き、求愛のさえずりに余念がない・・・みたいだな~!
身を守るために保護色の動物とは、まるで反対
ひなたぼっこしながら、うたた寝する犬や猫・・・まったくの無防備で、逃げることも攻撃することも(身を守ることを)忘れてしまったのではないか、と思うくらい、のうのうと暮らしている。
野生の時には、逃げたり人を襲ったりする熊でも、危険のない環境で暮らしていくと、穏やかで人なつっこい熊にもなる。人に飼育されている動物は、代を重ねることで、野生の時とは、異なる性質の動物になっていく。犬や猫も元々は野生の動物。
とても厳しい自然環境で、「生きるための糧を得ること」と、「危険から身を守ること」に、生きることの殆どを費やしている動物もいるでしょう。
現代社会の人間にも当てはまるのでは・・・?
「危険を感知する」「恐怖心」「警戒心」など「後天的なもの」がとても多い人間。
元々は存在しない危険を人間同士で作り出したり、恐怖心や警戒心をあおって、危険だと思い込んだりしている。
誰もが、身を守る必要のない暮らしを望むでしょう
人間なら、実現する能力を充分に具えている

▽ 自分を守ろうとする人間の性質
人間もまた、危険を感知して、身を守ろうとして、逃げたり攻撃したりする。
人間の場合、身の危険よりも、「心理的に感じる危険」の方がずっと大きい。
「心理的圧迫」
「心理的圧迫」の大きな要因が、「束縛」と「強制」。それは、今の社会に、とてもたくさんある、「してはならないこと」、「しなければならないこと」
「心理的圧迫」という自覚や意識は、薄いが、「してはならないこと」、「しなければならないこと」が、自分の心理面に大きく作用している。
「してはならない」、「しなければならない」ということ自体、束縛・強制だと思いますが・・・、「してはならないこと」、「しなければならないこと」を守らないと、更なる束縛・強制(例えば規則と罰則)
束縛:制限を加えて行動の自由を奪うこと
強制:その人の意思に関わりなく無理にさせること


「束縛・強制」は、「その人の意志を妨げる」もの
自分の意志よりも、「してはならないこと」、「しなければならないこと」を優先する。
束縛や強制という「心理的圧迫」
できるだけ、「束縛・強制」を受けないように、少しでも「心理的圧迫」から免れようとするのは、意志通りに行動することを欲する人間なら、当然。
「心理的圧迫」から「自分を守ろうとする」人間の性質について考えてみましょう。
1.人と人の力関係・上下関係
◎子どもに強く言い聞かせたり叱ったりする
◎子どもが理解できるように丁寧に教える(強く言い聞かせたり叱ったりしないで)
この二つを比べる
おとなと子どもの間にある「力関係」や「上下関係」
「言うことを聞きなさい」とか「言うことを聞かない子だ」と言う背景には、「子どもは従って当然」という考えがあるのでしょう。
親が上で子どもが下、先生が上で生徒が下、下の者は上の者に「従って当然」という考えがある
それが大きな勘違い
強い者は弱い者を力で抑えて、上になり、弱い者は強い者に従わざるを得ず、下になる。
幼い頃から、「従わざるを得ない」という体験を強いられている場合が多い。
先輩と後輩、上司と部下、雇う人と雇われる人、養う人と養われる人、能力の高い人と低い人、などなど、弱い方が下で、「従って当然」という力関係・上下関係の人間社会になっている。
もしも、弱い者が力をつけて強くなったり、弱い者が寄って強い力になると従わない。
すると、上の者はもっと強い力で従わせようとする

「愛情や思いやり」があったとしても、強い立場を利用した、力づくの方法

2.心理的圧迫はどこから?
 ・「してはならない」「しなければならない」
 ・「束縛・強制」
 ・「その人の意志を妨げる」
 ・「心理的圧迫」
この4つには、深い関係があるとも言えるし、同じことであるとも思うのです。
しかし、自分の意志で納得していると、「束縛・強制」を感じない、「心理的圧迫」もない。
「したい」とか「したくない」と思うことについて、「してはならない」「しなければならない」となると、「束縛・強制」を感じる。不自由を感じる。「してもいいじゃないか」「しなくてもいいじゃないか」と思うことについて、「してはならない」「しなければならない」となると、やはり、不自由だったり、窮屈な感じを受ける。
何も知らない子どもが、「してはならない」「しなければならない」ことを身につけていきますが、身につけ方によって、相当なストレス(心理的圧迫)が伴うでしょう。
親が幼い子どもに対して「ダメ」と言う場合、
「ダメ」と言う人の感情や気持ち(心理状態)によっては、子どもの心を強く圧迫するでしょう。
「やめなさい」「やりなさい」と、優しく言っても伝わらないからと、強い口調で言う。
「なぜ強い口調で言うのか」、よく考えてみよう。
「そのことの大切さを教える」ため?「その人のことを思う」からこそ強い口調になる?
本当に、そうだろうか?

「束縛・強制・人の意志を妨げる・自分に従わせる」などの表現を聞くと、あまり良い感じはしない。しかし・・・、
「悪い事はやめさせる」、「やるべき事はやらせる」などは、良いこと・必要なことだとしている・・・。
どちらも、中身は同じようなものでしょう。
どんなに良いこと・必要なことであっても、「やめさせる」「やらせる」というのは、相手の意志を妨げたり、従わせたりすることでしょう。
やめたり・やったりするのは、その人自身だから、「やめさせる」「やらせる」には方法が要るでしょう。その一つが「心理的圧迫」
強い口調や大きな声で言ったり、命令したり、時には暴力や脅迫を使ったり、規則や罰則などは、「やめさせる」「やらせる」ための方法。いずれも、「心理的圧迫」という方法を用いて、「人を動かそう」としている。
「親や先生の強い口調」と「強迫」と「罰則」を同列に並べることには反対されるかもしれませんが、ここでは、そのことの内容ではなく、いずれも、人を動かそう・従わせようとするもので、そうなるように「心理的圧迫」を与る方法だということを言いたいのです。

3.心理的圧迫の反作用
自分の外部から自分の心理面への圧力
「自分の外部からとは」、言葉や行為もありますが、周囲の人の心理状態(気持ちや感情)が、自分の心理面への圧力になる。その結果、さまざまな心理状態となって現れる。
心理的圧迫に対する、自分の心理面の反作用
何もしなければ逃げない動物でも、捕らえようとすると逃げる。
束縛・強制しようとすると、束縛・強制されたくない。
従わせようとすると、従いたくない。
考えてそうするのではなく、自然に生ずる心理作用
「悪感情」
「きらい・にくい・ゆるせない・けしからん」など
「暗い気持ち」
「さびしい・かなしい・つらい・こわい・はずかしい・うしろめたい・不安・心配」など
  なりたくないのに、なってしまう気持ちや感情

人間には、「悪感情」「暗い気持ち」がつきものだと言う人がいますが、そうは思いません。人は、生まれつき「悪感情」「暗い気持ち」をもって生まれてくるわけではないでしょう。
生まれてから成長する過程で、周囲の人の心理状態から受けた気持ちや感情によって、その人の気持ちや感情ができていくのでしょう。
「従いたくない」という気持ちが元々あるわけない。「従わせよう」とすることに出会って初めて、「従いたくない」という気持ち(作用)が出る

4.自分を守ろうとする心理作用
「悪感情」「暗い気持ち」の数々
1.「遠慮」や「気兼ね」
2.「疑い」や「警戒心」
3.「不平・不満」「反感」「拒絶」「抵抗」
4.「あせる」「悩む」「落ち込む」
5.「人に腹をたてる」
6.「人を責める」
7.「人を嫌う・憎む」

1.2.3.は、「自分を守ろうとしている」
 何を守ろうとしているのでしょう?
4.は、自分の中で葛藤している状態
 「そのままではいけない自分」になっている?
5.6.7.は、「他を攻撃する」という例
自分が直接被害を受けてなくても、犯罪者を責める、悪いことをした人に腹をたてる
なぜでしょう?
更に、罰してこらしめたり・制裁、仕返しや報復をすることがある
何のためにそうするのでしょう? 他の動物は、仕返しなんかしない
人間ならではの「そのままではいられない」という心理状態の現われ
行動に現われた攻撃ではなく、相手に向かう気持ちや感情のこと。
自分の中の「嫌な思い」を晴らすために、「そうしないと気が済まない」状態。
もっと強いものは、仕返しとか、こらしめるとか、
「そうしないと自分の思いや気持ちが保たれない」という苛立ちから自分を救いたい
「相手を攻撃しようとしている」という自覚がない
「自分を守ろうとしている」という自覚もない
無自覚・無意識のうちに、自分の何かを守ろうとして、相手を攻撃する。
その現われが怒りであり、争いであり、
社会を難しくし、人を不幸にしている大きな要因
元来、他を攻撃する必要なんてないはず 人を攻撃したくてする人はいないはず
なのに、攻撃するのは、「自分を守ろうとする」、やむにやまれぬ行為
肩をいからせ 人を恐がらせる人も、「自分を守りたい」気持ちが非常に強い
・おとなが子どもに対して、
・先生が生徒に対して、
・警察官が犯人に対して、
・どんなに立派な人でも
人に対して、腹をたてたり、責めたりするのは、「自分の何かを守ろうとしている」

他を責めたり、攻撃したり、腹をたてたりするのは、
「そうしないではいられない自分」「そのままではいられない自分」を守ろうとするから
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