「客観的観察力 科学する力 研鑽」

「私はこの世界でどのように生きていくべきなのか?生きる意味は何か?」の問い。
食べるためか?安定したよい会社に勤めるためか?愛する家族のためか?自分の存在を認めてもらうためか?もっと根本的な意味があるのか?
どのように生きるべきか? 生きる意味は? 
その前に、「私はこの世界でどのように生きているのか?」を知ること。
私とは? この世界とは? 私と世界の関係は? 生きるとは? を知ること。
私とこの世界の関係が正しく把握されていない。それはなぜか? 私の認識プロセスがどのようになっていて、どのようにこの世界を捉えているかを知らない。知らないでやっているから誤解を生じ、この世界で生きる道を誤り、迷い、様々な人間社会問題が発生している。
しかし人間の認識の理論を知っていても、実際に自分を観察することができなければ、単なる知識で本当に知ることはできない。観察するとは理論や知識ではない。
自分の認識プロセスを観察する。まずはこの世界と自分との接点、プロセスの始まりである「感覚」を観察できるようになることが必要。
「感覚」について解説し理解を深めて、感覚を観察する練習方法について述べる。


人の認識プロセスについて、感覚と知覚と認知を理論的に区別することもできるが、実際の観察においては明確に分けられるものでもない。自分がどのように物事を認識しているか、その認識プロセスを自分で観察できる範囲で捉えてみる。

「感覚」を観察することの重要性。なぜ「感覚」か?
自分の感覚器官が、実際の世界の「何か」と接触することで「感覚」が発生する。付けた意味も含めて「感覚」と言っている場合も多いが、よく観察すると、意味をつける前に「感覚」があることがわかる。「感覚」はこの世界との接点に位置しているが、実際のそのものとは質的に異なる。実際の世界にアプローチするには「感覚」を手がかりにするしかないが、あくまで自分の「感覚」であり、人間には実際の事物をそのまま捉えることは不可能である。一人ひとりによって、また感覚器官の機能や性能にも限界や個体差がある。「感覚」自体は意味を持たず、それを捉えても「このようなもの」としか表現できない。その「感覚」にどのような名前や意味を与えるかは、自分が記憶の中にどのような意味を持っているか、その中からどの意味を採用しその「感覚」に当てはめるかで決定されている。したがって付けられた「意味」と「感覚」も質的には異なるものである。意味には一人ひとりの価値観が含まれていて、同じ表現の言葉や概念でも、みな異なっている。意味や価値観は、自分が育った環境(世界)の中で体験的に形成されたものが記憶されていて、また常に新たに形成している。従って実際の世界と言っても、認識し理解できるのは自分捉えた世界であり、一人ひとりに自分が捉えた世界があると言えるだろう。自分の世界のことは観察できても、他の人の世界は観察できない、わからない。そして人間が捉えた世界とは別に、人間の存在の有無にかかわらず、実存する(実際のそのもの、本当の)世界がある。

事実・実際の世界と自分の関係を知ろうとする場合、この世界との接点である「感覚」を観察しアプローチしていく以外に道はない。名前や意味の付いていない「このような」としか表現できない「感覚」を観察すること。観察するには言葉で考えたり調べたりするのではなく、「感覚」そのままを体験するのである。いくら科学的に哲学的に調べ本当はどうかと言っても、「感覚」やそれへの意味づけを観察することをしないで、概念の中だけで考えていても、実際の世界に迫ることはできない。実際の世界に対して、接点である「感覚」、そして意味付けや思考での知覚や認知、さらに価値観の形成や心の反応などの一連のプロセスを通して、一人ひとりが「自分の世界」として認識している。その自覚を持つこと。自分の世界の中に感覚や認識、理解、価値観や概念形成、感情など心の反応や自分の存在意識がある。どんなに自分の・・・、自分は・・・、自分が・・・と思っても、あくまでも「自分の世界」のことで、実際の世界とは異なるのである。

そのことを自覚した上で。「私はこの世界でどのように生きるべきか?」の問いを考えてみる。「自分の世界」が「実際の世界」と調和してこそ、人間は無理なく生きていくことができるのだろう。逆に、自分の世界の自覚がなく、つまり自分の認識プロセスの中に誤認があるから、無理な考えや価値観からの無理な行為となり、実際の世界との不調和から心へ負荷(無理なストレス)が加わったりする。
意味付けは意味付けとして、それにとらわれずに「感覚」を観察できる能力(客観的観察能力)をつけることで、あくまでも「感覚」に意味付けし自分の世界で物事を見たり考えたりしている自覚を促す。また接点である「感覚」を観察することで、はじめて実際の世界への科学的哲学的アプローチが可能になり、その過程で自分の世界(意味や概念や心)が実際の世界と調和したものになっていく。調和した状態になってはじめて、自分がこの世界での生きる道が拓けてくる。「何をするか」の前に「どう生きるか」について、一人ひとりが自分に問いかけてみることかと思う。
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