自分を観るということ(自分を知るために)

一、  自分を観る → 自分の中を観る
二、  自分の中を観る → 自分の中の実際を観る
三、  自分の中の実際を観る → 言葉で表現する前のこと
四、  自分を観るときのポイント
五、  自分の中を観る場合、どこに心を置いて観るか

六   <自分を観る>生き方
七、 <自分を観る>は、人間の知性の中でどのような位置にあるか
八、 <自分を観る>は、研鑽とどう繋がっているか
九、 <自分を観る>練習の場としての内観コース


一、自分を観る → 自分の中を観る
  
他人を観るのではなく、他ならぬこの自分を観る
自分(の構成) = 身体(外側) + 心(内側・中)
               ↓          ↓
            動作・言動     欲求・感情・思考・・・

自分の中に、欲求・感情・思考などがあって、それが動作・言動となって外に現れるのではないか
自分を観るというとき、先ずは自分の中に焦点を当てて観ることではないか


例題①
会社(研鑽会)に行く途中の自分
始まる時間が過ぎて、走っている
走っている→動作
焦っている→自分の中(の状態)
自分の中を観る

例題②
誰かと会話している自分
話している(口を動かして声を出している)→動作
何か思って(話している)→自分の中(の思い)
自分の中を観る

例題③
夫婦喧嘩して、むしゃくしゃして、そばにいる猫を蹴飛ばす自分
蹴飛ばす→動作
むしゃくしゃ→自分の中(の感情)
自分の中を観る

例題④
お腹が空いて、アンパンを食べた、美味しかった
アンパンを食べた→動作
お腹が空いた・美味しかった→自分の中(の欲求・感覚)
自分の中を観る


例題のまとめ

会社(研鑽会)に行く・走る・話す・蹴飛ばす・食べるは
動作・言動

焦っている・思っている・むしゃくしゃ・お腹が空いた・美味しいは
自分の中
自分の中を観る

応用・実践  
今のこの場に座っている自分の中を観る




二、自分の中を観る → 自分の中の実際を観る

自分は何々をした・している(動作・言動)
そのときの自分の中の実際を観る(観ようとする)
自分の中は実際どんな状態か?
自分の中に実際何があるか?

自分の中の実際を観て、焦っていると捉える
自分の中の実際を観て、何か思っていると捉える
自分の中の実際を観て、むしゃくしゃしていると捉える
自分の中の実際を観て、お腹が空いたと捉える
自分の中の実際を観て、美味しいと捉える

焦っている・思っている・むしゃくしゃ・お腹が空いた・美味しいは
自分の中の実際の状態や変化を観て
自分が捉えて、言葉で表現したもの




三、自分の中の実際を観る → 言葉で表現する前のこと

言葉に表現する前に、言葉でいろいろ思う前に、
自分の中の実際の状態や変化を、そのまま観る、よく観る

注、「痛い」とか「むかつく」とか「うれしい」とか、自分の中を表現する言葉というのは、自然に自分の中に出てくるだろう。それを打ち消すのでもない。言葉の前に、自分の中に、実際の状態や変化がある。同じ「痛い」という言葉で表現しても、その時々の実際の痛みの程度や質は全部違うのではないか。そこを観るということ。

例題①
○自分は腹を立てやすいと思う。それは<自分について思う>ことであって、<自分を観る>ことではない。
○<自分を観る>とは、腹を立てた、そのときの自分の中の実際の状態を観ることではないか。
○腹を立てたと言う前に、自分の中の実際の状態をよく観る、直視する。
○直視し見届けることで、はじめて、自分の中の腹立ちを具体的に検べることが出来るのではないか。
○自分の中の実際の状態をよく観ないで、自分は何で腹を立てるんだろう?と、いくら頭で考えても、何にもならないのではないか。
  
例題②
○自分は独りぼっちで寂しいと思う。それは、<思う>ことであって、<観る>ことではない。
○<自分を観る>とは、目を外に逸らさないで、自分の中に実際あるものを直視することではないか。
○寂しいのはいやだから、それから逃れたくて、明るく振舞ったり、楽しそうな表情を作ったりと、外をいろいろ繕ってみても、寂しさは解決しないのではないか。寂しいは自分の中のこと。
○自分の中を直視することで、はじめて、寂しいと思う自分を検べることができるのではないか。   
   
注、自分を検べるということは、自分の実際をよく観て検べるということではないか。自分の実際をよく観ないで、ああだこうだと自分について思い巡らしたり、理屈や知識で観念的に整理したとしても、自分の実状(腹立ちや寂しさ)は相変わらずではないか。




四、自分を観るときのポイント
 
①観るはただ観るだけ
   
思う・考える・(良し悪しを)判断する・解釈する・説明する、とは違う。

これらの前に観るがある。

観て思う・観て考える・観て判断する・観て解釈する・観て説明する。

○実際をよく観ないで、思う・考える・判断する・解釈する・説明する頭の癖がついているのではないか。(観ないで思う→妄想?)

例えば
○「相手に何かを押し付けた」と言う。
そのとき、押し付けた自分の中の実際の状態を
どれだけよく観て、そう言うのか。
○「相手の話が聞けなかった」と言う。
そのとき、聞けなかった自分の中の実際の状態を
どれだけよく観て、そう言うのか。

○「自分には劣等感がある」「自分には悪感情がある」と言う。
そのとき、自分の中の実際の状態をどれだけよく観て、そう言うのか

○「押し付けた」「聞けなかった」「劣等感がある」「悪感情がある」とか思ったり言ったりして、自分を観たつもり? よく観ないで「自分はそうだ」と決めてはいないか? 決めていては、自分がよく観えないのでは?


②感情を入れないで観る

観るは感じるとも違う。
観て感じる、ということではないか。

観るときは、感情に囚われないで観る。
感情が出ても放っておく。
感じる方に行かない。
あくまで自分を観るに徹する。

③外の物を(肉眼で)よく観る、自分の中を(心の目?・意識で)
よく観る、原理は同じではないか。

①②③ → 自分の中の実際の状態を、①(良し悪しの)判断や解釈を入れないで、②感情にも囚われないで、③物の姿をよく観察するようなつもりで、よく観る(観ようとする)。




五、自分の中を観る場合、どこに心を置いて観るか

焦っている・思っている・むしゃくしゃ・お腹が空いた・美味しいなどと捉えられる、自分の中の状態や変化は、自分の中にその時々に現れた現象面ではないか。そのような現象面となって現れる元のもの、それを<心>と呼んでいるのではないか。

自分の中(の構成)  元の心 → 心の現象面(心の反応)

○<心の現象面>は、絶えず変化し動いているにしても、
<元の心>はいつもある(実在する)のではないか。
  
○われわれが本当に観たい知りたいのは、<心の現象面>ではなく、その実在する<元の心>ではないか。

○それを直接観ることはできないが、自分の中を観るときはいつも、
「<元の心>に、心を置いて観る」というのはどうだろうか。

○自分の中の<元の心>に迫ろうとして、
自分の<心の現象面>をよく観る、じっと観る。

○そのような姿勢(心の置き方)であってこそ、
自分の中の実際・実態(欲求・感情・思考・意志の動き・気持の変化)も、そのまま観れるのではないか。

○自分の中の実際・実態をそのまま観ることから、さらに進んで、
自分の中の元の心(の状態や形成)の解明に向かうことが出来るのではないか。




六、<自分を観る>生き方

○自分を観る→自分と向き合う→自分の中と向き合う
突き詰めると、自分の中に実在する<元の心>と向き合うということ。

○自分の中の<元の心>と向き合って生きる、
そこに、他の人の中にも実在する<元の心>を尊重する態度が生まれる。
○自分の本心と向き合うことで、自ずと、他の人の本心を知りたくなる○自分を観る>は自分の生き方に成っていく。




七、<自分を観る>は、人間の知性の中でどのような位置にあるか
   
<自分を観る>は人間に備わった本来的な機能で、知性のベースとなるものではないか。(人間→自分を観る動物?)

○<自分を観る>があってこそ、(生活や仕事をするための)知識や(よく生きるための)教養・思想も、自分のものとして身に付くのではないか。
○何かの道具や機械の使い方を覚えて身に付ける場合、自分の手や身体の動きをよく観ながら、その使い方を身に付けていくのだろう○教養や思想の場合は、自分の中の実際(の考えや欲求や目的など)を観ながら、会得していくのだろう。
○<自分を観る>がないと、知識・教養・思想などに対して学習的になり、固定観念が増え、思考もパターン化して、自律的主体的な思考ができなくなるのではないか。
○いろいろな固定観念・知識で目隠しされて<自分を観る>が出来なくなる




八、<自分を観る>は研鑽とどう繋がっているか
<自分を観る>から研鑽が始まるのではないか


決めつけがなく、実際はどうか、本当はどうかと検べる、
それを研鑽と言うならば、

○自分を研鑽の対象とする場合、自分の実際を観ることから研鑽が始まる。
○また、研鑽の対象は自分ばかりでなく、物や社会や自然などあらゆることが対象となる、その場合、そのことに対する自分の中の見方や考え方を観る(自覚する)ことから、研鑽が始まる。




九、<自分を観る>練習の場としての内観コース
  
1、内観法について
内観法とは、60年程前から故吉本伊信氏によって考案・確立され、現在各地の内観研修所や医療や教育現場で実践されている自己観察法である。
研鑽ライフセンターでは、内観法を取り入れて、自分を知るための内観コースが設けられている。

  
2、内観コースでは
①自分の人生(成長の過程・経歴)を振り返ることで、
自分の成り立ち、人としての成り立ちを知る。
②自分の心の形成を省みる機会ともなる。
③心の健康正常化(心に抱える悩み・傷・歪みの解消)を図る。
etc
内観コースでの体験は、人それぞれだが、どれも自分を観る(内観する)ことで得られる体験だと言える。自分を観る体験と言ってもいいわけで、自ずと自分を観る練習の場ともなる。
      
注、自分を観る練習といっても、そこで新しい能力を身につけるというのではなく、<自分を観る>という、人間に備わった本来的な機能が、活性化されるということではないか。
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