⑥観点というもの

 観点という言葉を使ってきたが、自分を観るときの目の付けどころ、自分を観て検べるための手がかりという程度の意味あいで、テーマとか自分への問いかけと言ってもよさそうだが、言葉をいろいろ使うと思考の混乱をきたす面もあるかと思い、観点、観点と言ってきた。

 自分を観て検べるとき、どのような観点をとるかによって、自分について浮き彫りにされるところが違ってくる。そういえば自分が「人生を知るための研鑽会」や「自分を知るための研鑽会」に参加したときのことを思い出す。どちらの研鑽会においても、スタッフの人の出してくれた問い(観点・テーマ)を、自分への問いかけにして自分の中を観て検べる、そんなことをしたなという印象が残っている。どちらも内観体験のあとの参加だったので、研鑽会の場で自分が内観しているみたいな感覚もあった。

 振り返ってみると、どちらのコースにおいても、人生を知るために、また自分を知るために、幾つかの観点(自分への問い)が用意されていたように思う。一週間の過程というのは、そういう観点でプログラムされていたという印象が残っている。

 各コースの性格の違いというのは、観点のとり方の違いとは言えないだろうか。自分を知るためのコースでは自分が知れていくように、自分というものが浮き彫りにされていくようにと、幾つかの観点がプログラムされている。人生を知るためのコースでは、自分の人生が知れていくように、自分の人生というものが浮き彫りにされていくように、幾つかの観点がプログラムされている、そんなふうにも言えるのではないか。

 自分を知るための内観コースにおいても、自分を知るために、三つの観点や、<嘘と盗み>とか<養育費(の計算)>という観点が用意されている。そして最近は、参加者が望むなら、その人が自分で焦点を当てて検べてみたいというあたりを観点にして、内観するということも行われるようになってきた。例えば<劣等感>とか<人の話に対する自分の聞き方>とか。このあたりが内観コースの特質の一つになってきていると言えないだろうか。自分に対して独自の観点を用意して自分を観て検べるということだ。こういうことは他のコースではやりにくいのではないか。
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