③観点というもの

・観点という言葉を広辞苑で調べてみると「観察・考察するときの立場や目の付けどころ、見方。見地。『観点が違う』『観点を変える』」と書いてあった。「・・の立場や目の付けどころ」とあるが、内観するとか自分を検べるという場合、立場というより目の付けどころという方が、自分には分かりやすくピッタリくる。

 自分のどこに目を付けるのか、自分のどこを観るのか、自分のどこに焦点をあてるのか。検べることで自分の何が、自分のどのあたりが浮き彫りになってくるのか。観点(目の付けどころ)が違えば、浮き彫りになってくるところも違う。観点を変えて、自分をいろいろな角度から検べる。自分のいろいろな面が浮き彫りになってくる。

・ある観点(テーマ・言葉)で自分を観て検べるという場合、その観点というのは一つの手がかりと言ったらいいだろうか。自分を検べるために仮に用意するものといったら言い過ぎか?

 観点というのは言葉で表現される。例えば劣等感というのもなんらかの心的状態を指しての言葉だ。その観点(言葉)を手がかりに自分を観て検べる場合、その人はその言葉とその言葉にまつわる意味あいを頭に置いておくのだが、あくまで自分のありのままを観て検べようする。そういう中で自分の何らかの心的状態が浮かび上がっくることがある。それを劣等感と言ってもいいわけだが、そこを直視(客観視・自分から離して観ること)できたら、今あるその劣等感という何らかの心的状態は変化して消えていく。その人の中から劣等感という心的状態がなくなれば、劣等感という言葉も要らないわけだ。そうすると劣等感という観点(言葉)は自分を検べるために仮に用意した手がかりという程度のものと言える。

 実際にはそう簡単にはいかないようで、自分を観て検べる場合には、内容的にも時間的にもそれなりの過程は要るが、原理的にはこういうことかと思う。

 振り返ってみれば、劣等感という心的状態も、決して実体的なものでなく、何かのきっかけで現れた一時的(?)状態であったことに気付く。

 言葉にすると何か固定されて、言葉で表現されるものが何か実体としてあるかのごとくにイメージしやすいが、そのことが自分を観たり検べたりし難くさせるのではないか。下手すると「劣等感とは何か」と考える方に気が行ってしまって、自分を観るとか自分を検べるとかにならない。

 観点(手がかり・テーマ)というのものを適切に設定する必要があるわけだが、その受け取り方に何か固定したものが入りやすいのではないか。
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