内観にみる人間観5(嘘について)

 嘘ということに対する面白い解釈があった。それは、自身の具体的な実例を前にしての内観者の洞察から出てきたものだが、それを聞いて自分の受け取ったあたりをちょっと整理して、ごく単純化して表現してみると・・・

・実際でない、本当でない、ということを嘘と言うなら、人間の捉えたものは全部嘘ということになるが、そこまでは言わないにしても、自分が自分の感覚で捉えた、受け取ったという自覚なく、自分の中で「実際はこうだ、本当はこうだ」と決めて、思いをふくらませていく妄想、そして、そこから発する言動、それは嘘以外の何者でもない。こういう場合、嘘ついているという自覚がない。

・約束・規則・法律・あり方等(の観念)に縛られて、自分の実際の気持、本当の気持が見えなくなっている。自分は自分の考えや意志で何かをやっているつもりでいるが、実は自分の実際の気持、本当の気持でやっているのとは違う。自分の実際の気持や本当の気持に嘘ついている。こういう場合も嘘という自覚はない。

 嘘にもいろいろあるものだ。でも、やっぱ嘘として(嘘という観念で)捉えられる人の心(の状態)があるようだ。本当でない・真実でない心と言ってしまえば簡単だが、やっぱ自分の心のうちがどうなっているかということを、自分で自分の中に具体的に突き止めることをしないならば、嘘はなくならないだろう。嘘がなくならない限り、本当に晴れ晴れとした心、本当に晴れ晴れとした人生は実現しない。

 嘘というのは、一人の心理的負担に留まる場合もあるが、その多くは人の活動となってあらわれ、その影響は広く周囲にまで及んでいく。機構制度や組織の運営経営にまで嘘が入ると、多くの人の現実と齟齬をきたす。人の中の心理的負担の多くはそこに起因するとも言える。そういう心理的負担からまた、人の中に嘘が生まれるのだろう。
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