内観にみる人間観2

・内観の中で母親に対する自分を調べるという場合の母親とは自分を産んでくれた母親だ。調べている間でも自分との関係の中での母というふうに見ている。これもしてくれた、あれもしてくれた、こんな迷惑をかけたな、とかいうように自分との関係で、いろいろなことがまずは浮かんでくる。そのように繰り返し調べているうちに、もう何十年も前のことなのに、その時の母が急に自分の身に迫ってくる感じがする。自分の内観体験の中でもそんなことがあった。でも、それは母の気持が分かったというようなものではなかったように思う。自分がどんなであろうと、絶えず自分に気をかけてくれる母という存在、その存在の大きさを知るといったらいいだろうか。その時には、単に自分との関係の中での母というものではなくなっているような気がする。母という人の存在がしっかりある、そんな感覚だ。そこで初めて、今まで母の気持を思いやろうともしなかった自分にも気付く。

・「両親に対する自分ということで調べているときに、兄のことも自分の中に出てきて、何か気にかかるから兄に対する自分についても調べてみたい」とある人が出していた。内観する人の多くが、両親に対する自分について調べて両親の存在の大きさを知ると、兄弟とか自分にとって身近な他の人の存在も何か気にかかってくるようだ。その人に対する自分を調べていると、あらためてその人の存在が自分に感じられてくる、そんな過程が内観体験の中にはあるようだ。自分との関わりの中で自分なりに作っていたイメージを超えた存在として感じられてくる。そうして初めて「その人はその時実際どんな気持だったのだろうか?」とその人の方に気持が向く。

・人の気持を推しはかるということもあるが、それ以前にその人の存在を知るということがあると思う。その人の存在を知るということは、その人にもその人の気持があるということを知るということだ。あたり前のことだが、この辺のことが抜けると、相手の気持を思っているつもりでも、いつまでも自分の思いの世界から抜けられない。 
内観にみる人間観 | - | trackbacks (0)

Trackbacks