内観にみる人間観1

 内観法では、①世話になったこと②して返したこと③迷惑かけたことの三つの観点で、自分が育ってきた過程における身近な人(両親・祖父母・兄弟・恩師・友人・近所の人など)に対する自分を、幼少のころから現在に至るまで年令を区切って調べていく。

 そのことは、三つの観点でもって、人との関わりの中で実際にあった具体的なこと(場面)をひとつひとつ思い起こして、そこをよく観て調べていくことというようにも言えると思う。ただ単に回想にふけるとか、自分の人生についてあれこれ思いめぐらすというのではない。人との関わりの中にある自分の人生の実際を順を追って具体的に辿っていくことだ。

 そういう中で、自分一人で大きくなったのではない、どれだけ多くのものを両親をはじめとして周囲の人から受けてきたか、自分の人生のいろいろな場面でどれだけ周囲の人に支えられてきたか、いわば人との関わりの実際を身をもって知ることになる。さらに言えば、周囲から受けているということを自覚し、また受けたものを具体的に知ることで、自分の生き方の方向性までも見えてきて、これからの自分の人生を描けるようにもなる。内観法はそのように仕組まれているように思う。(話を単純化しすぎてしまったきらいもあるが、ここではテーマを浮き彫りにすることが目的だから・・・)

「身体も心も物の考え方や能力も社会関連により両親を経て受け継いだものや、周囲から与えられたものに過ぎなく、幾多先輩の業績を継ぎ合せ、鶏や自然に教えられ、受けた頭脳で考察、発案し、組み合わせたもので、こうして全部社会・周囲から受けたものを、凡て社会に提供利用されることは、当然の帰結だとしています。」

 この文脈にも、受けていることの自覚と、その当然の帰結としての行き方(生き方)というものが窺える。この中で「・・・社会関連により両親を経て受け継いだもの・・」というあたりが目にとまった。そこには<両親を経て受け継いだ>と書かれている。

 内観体験では物にしても心(愛情)にしても直接<両親(等、ある特定の人)から受けた>という印象が強く残る。でも事の真相としては<社会関連により両親を経て受けた>ということではないかと思う。

 人(両親その他具体的な人)との関わりということを突き詰めていくと、それは(あくまでも具体的なこととしてある)社会関連ということになるかと思う。自分を知るということは社会関連の中での自分を知るということでもあると思う。そんなあたりのことを踏まえて内観法を捉え直してみたいという思いが最近出てきた。

 社会関連(社会原理?)を知るための、あるいはそのための前準備としての内観という位置付けも出来るような気もする。

 自分と親(ある人)との関わりを見る→親(その人)に世話になった→親(その人)の存在の大きさを知る→人の存在の仕方を知る→社会関連の中にいる自分を知る

 全部具体的なことを見て、そして具体的に調べることを通して知っていく。知っていく順序もあると思う。方法としても、内観→内観+研鑚という方向のものがあると思う。
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