第二回 研究所サロン-メモ Ⅱ

 社会とか人間について調べようとするとき、社会の問題(各種事件・対立・差別・戦争等等)を解決したいとか、自分(人間)のかかえる問題(悩み・苦しみ・怒り等等)を解消したいという願い(思い)が強くはたらく場合、調べるということになりにくいのではないか。

 社会の問題、自分の問題と言う場合、社会そのもの、自分(人間)そのものよりも問題の方に関心が行っていて、社会そのもの(社会の実際)、人間そのもの(人間の実際)に目が向いていないと言ってもいいのではないか。だから社会や人間の実際を調べることができない。

 社会の問題、自分(人間)の問題と言う場合、その人の中にすでに社会に対する固定した見方(固定した社会観)、自分(人間)に対する固定した見方(固定した自分観・人間観)があるのではないか。

 何かを問題にするところに、社会というものに対するその人の受け取り(社会観)や自分(人間)というものに対するその人の受け取り(自分観・人間観)が現れていると言ったら言い過ぎだろうか。

 先ず、自分の中の社会観・人間観を調べることをしないならば、社会の実際・人間の実際に迫ることはできない。

 自分(人間)そのものを見ようとしないで、問題化するから、自分や人を責めたり罰したりしようとする。社会そのものを見ようとしないで、問題化するから、対立・戦争に発展する。そして権利・義務・約束・規則・法律・条約等が横行するようになる。

 その問題が解決したらそれでよし、自分の悩みが解消したらそれでよし、楽になった、幸せになったなどと思い込むのは、自分にとっての目障りがなくなってよかったという程度の、実に狭量な見方と言うべきか・・・。
社会観の元となる人間観 | - | -