第二回 研究所サロン-メモ Ⅰ

 サーカスでライオンが何かの芸を覚える場合、いわゆる「飴と鞭」で調教される。調教師の指示通りに動けば、飴(褒美)をもらえる。調教師の指示通りに動けないと、鞭(罰)が飛んでくる。ライオンは否応なしに調教師の指示通りに動くようになり芸を覚える。

 芸を覚えたライオンは、自ら身体を動かして自分で芸をしているのだから、一見、自らの意志で芸をしているかのように見えるが、「飴と鞭」での調教の過程をみると、どうも、ライオンが自分の意志で芸をやっているとは言えなくなる。

 自らの自由意志(自由欲求)というより、そういう行動のパターンが調教によってライオンの中に形成されたというふうに見れるのではないか。

 生活のためにあくせく働く人間の姿は、このようなライオンの姿(行動)にダブって見えてくる。人間の場合、まわりの評価(よく思われる)や給料(褒美・報酬)等が飴ということになるのか。また、働かないと非難されるとか、給料もらえないということが、鞭(罰)ということになるのか。とにかく働くように調教されていると言ったら言い過ぎだろうか。

 考えてみれば、車運転する場合も、左側を走るとか信号が赤になったら止まるとか、交通法規に則って運転するというのも、そういうように教えられているということだ。この場合、交通法規に則って運転していても別にほめられもしないが、それに違反すると罰金を取られる。罰金をとられるから赤信号で止まるんだとは、あまりはっきりと思ってもいないかもしれないが、自分の場合は、やっぱ赤信号では止まらなければという思い(観念)の背後には、そうしなければ罰せられるという観念もありそうな気がする。車の運転もライオンが調教されて芸を覚えるのに何か似ているような感じもする。
 
 こういう場合も、自分で身体を動かして働いているとか、自分で車を操作しているといっても、自らの自由意志(自由欲求)で動いているとは言えないような気がする。言ってみれば、そういう行動パターンが教育(調教)によって形成されたというふうに見れるのではないか。いや、人間の場合、そのような行動に現れる前の頭の中(観念・思考パターン)が教育等によって形成されたと言ったほうがいいのかもしれない。そのように行動するように観念が形成されている、そのように行動するように観念づいていると言ってもいいかもしれない。だからそうするもんだみたいに思って、自分でもその気になり、自分の意志でやっているつもりでいるのだろう。

 ライオンの場合はその頭の中身(構造)はよく分からないからさて置き、人間(自分)の場合、自分の中に形成された何がしかの観念や思考パターンが、自分の行動(欲求・意志)の元になっているのであれば、そこをよくよく調べてみたいものだ。

 自分がそうしたいから、自分の意志でそうしていると思っていても、実は何かの観念で動かされているということもあり得る。でもその観念も自分の頭の中のものであれば、そこをよく見て調べることで、その観念を明るみに出していける。

 どんな感情とか欲求とか意志とかでも自分の中から湧いてきていることに間違いないが、妄想・幻覚等も自分の中から湧いてくるのであるから、その元をよく調べないで、自分の中から湧いてきたなどといって大事にはしておれない。どこから湧いてくるのやら・・・・。
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