自立した社会人④

「自立」というテーマを考えていく時、”付き合い”で成り立っている関係に、光が当たってくる。

ある人の例:
風邪で咳が出ているので、咳止めの薬を呑みたいと思っている時に、親しい人の家に行った。そこに風邪薬が置いてあり、手に取ってみていると、その家の人が、「持っていっていいよ」と言う。が、その風邪薬は、鼻水止めの薬で、ほしい薬ではない。が、その家の人が、「持って行きなよ」と何度か言う。
せっかく自分のことを心配してくれて声をかけてくれているんだから、断るのは悪いし、効能書きにも小さく咳のことも書いてあるから、と、自分が咳止めの薬がほしいということは言わずに、その薬をもらって帰った・・・・なんとなく、すっきりしないまま。

これには、せっかく○○してくれるんだから、という観方があるのだろう。
これも、相手の人が、自発的自由意志でやっているというのではなく、わざわざやってくれている、せっかくしてくれているという、”恩を受けている”というような人間関係で捉える社会観から、そのように観えてくるのだろう。
せっかく○○してくれたんだから、という関係で捉える世界では、それに対しては、恩を返すような行動が、当然要請される。自発的なものではなく、その枠組みで動かされているような状態だろうか。

断ると、気を悪くするんではないか?という捉え方もある。
気持を受けたということはあるのだろう。
が、だからといって、ほしくもない薬をもらうことが、気持を受けたということにはならないだろう。気持と事柄が混線している世界。
また、”断る”というような意識になっている時は、状況がこうなっている、そういうことに対して、自分で結論を出して、それを言おうとするような状態なのだろう。つまり、相手の意見を聴き、自分の意見も出して、共に話し合うという状態ではない。決まったものと捉え、それに対して、決まったもので対しているような状態とも言えようか。

”付き合い”の状態では、自分の自発的な意志を見出すことも出来ないのだろう。曇りがかかったような世界で生きているという感じだろうか。
絡み合った人間関係の中で、関係面を気にしながら、縛り合いながら生きているような世界が見えて来る。
そこに、「自覚」の光が差し込むと、自分の意志が見え出し、知恵が働き出し、話し合える状態に心もなっていき・・・と展開していくのだろう。
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