―― メモ(生涯学究制の充実) ――

2006.01.23 Mon

メモ(生涯学究制の充実)

知能、知性、知恵など、なぜ「知」という文字を使うのか知らないが、
人間にとって「知る」ということは、とても大きいことだろうと思う。
他の動物の場合も、栄養になる食料や、安全な住み場を知って行動しているのだろう。
「知る」ことによって、行く先や方向を自分で定めることができるのだろう。

人は、知らず知らずの中に、理から外れ、人間らしくない状態に陥っていることが多いが、
「本来の正常な人間像」を知れば、自ずとその方向へ進み、そうなれるもの。
例えば全く未知のものに出会い、初めて知れば、「ああそうか」と素直に「知る」だけだ。
しかし、「本来の正常な人間像」を「ああそうか」と素直に「知る」ことができない人がある。
「本来の正常な人間像」を「ああそうか」と素直に「知る」ことができる人が欲しい。
そういう人同士の話は早い。何事にも通じて、すーすーいける。

「知る」ということは、すぐにそういう人に成るということでなく、先ず素直に「知る」ということ。
「ああそうか」と、素直に「知る」人はよいが、そうでなくて、いろいろと自分の考え(思い感情)等が出てくる人は、「知る」という前の準備が要ると思う。
「知る」状態になっていないと、「本来の正常な人間像」に出会うこと自体、逆効果になることもある。

研鑽セミナーや、予科、本科、専科、という順に素直に知って、その方向に進める人はよいが、
「知る」ことができない人用の「知る」前準備としての方法が要ると思う。
予科、本科、専科という課程で、生涯学究制を設けていきたいが、現状の人に応じて、それ以外の行程や方法など体制を逐次整えていく必要がある。

「知る」ことができる人になって、それから生涯学究制本来の「知る」課程に入れる。
紛争苦悩や思い込み信じ込みは、人間を知らないことから来ていると思う。
これらの解決・解消のために何に力を注ぐかだと思う。
だから、人間を「知る」ことが先決だが、素直に「知る」ことができない状態にまで病んでいる人間には、「知る」ことのできる状態、人間としての元々の状態に復帰することが先ず第一に必要と思う。
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