無いで当り前で、安定・安心

ある日のニュースでのこと。車椅子の人が電車の乗り降りの時、駅員が介助しなかったと訴えた。そして、駅長さん等が頭を下げて謝罪した。

周囲から大事にされて「手助けされて当り前」という観念になっているとしたら、その車椅子の人は、とても不幸だなと思う。


福祉の充実を取り違えて、「してもらって当然」と威張る国民を増産して、そこからくる不平・不満への対応に忙しい行政。
これでは、豊かな人はできないし、むしり取られるばかりで豊かな社会はできない。

中には、不備や不手際を指摘して、不平や不足を言うことで社会が改善されると思う人もいるみたいだが、改善するのは国民以外にいるのだろうか。


常識観念や社会通念で、みんなが「当り前だ」としているので、「当り前だ」と自分がキメツケている自覚がない。

あてにしてない状態で、物をもらったり、食事や洗濯をしてもらったり、手助けされたり、協力されたりしたら、どんなに嬉しいと思うだろう。
しかし、物が豊富になり、制度や環境が整うと、有って当り前、してくれて当然になる。お金を払ったんだから、自分はこれだけやったんだから、仕事なんだから、約束したんだから、家族なんだから、ここの社員なんだから、規則でこうなってるんだから、・・・・

日常生活の殆どが、「有って当り前」「やって当り前」になっている。自分の当り前の基準を下回ると「無いのはおかしい」「やらないのはおかしい」と不平・不満となる。
「有る物」や「人の行為」が見えなくなる。
「有って当り前」「やって当り前」になると、「物の豊かさ」も「人の行為への喜び」も、どんどん薄れていく。
「豊かさ」や「喜び」が薄れていくということは、「幸福」とは逆方向だということは言うまでもないと思う。

感謝したり、ありがたく思いなさいという精神修養ではない。
有る物や人の行為が、ありのまま見える正常な普通の人になろうということ。


「幸福」には、「豊かさ」や「喜び」は必須条件で、かなり大きな部分を占めると思うが、幸福を願って良かれと思って、豊かさや喜びのない暮らしへと逆行しているのではないだろうか。

「無い」ということを、「寂しい」とか「貧しい」と思う人がいる。
しかし、「無くて当り前」あてにしていない状態というのは、がっかりすることも、不平や不満もない。全てが「有る」「有る」の豊かな状態だと思う。

金が無いとか、人がいないとか、食べ物はご飯しかない、飲み物は水しかない、言った通りやってない、少ししかやらない、あれがない、これがない、と思う人は、自分の基準線以下の物や行為が見えない「上げ底の人」だと思う。
上げ底の人は、すぐに不平・不満・不足が出て、さびしく貧しくなる。
あの人も上げ底だなぁ、この人も上げ底だなぁ、・・・
上げ底の人には近寄りたくないねぇ。喜びあふれる豊かな人に・・・

人間、もともとは底をついている、ゆるぎない安定・安心の上に生きている。
人類幸福の根幹に関わる、簡単明瞭すぎて軽視看過している重大問題と思う。
豊かさ 喜び | - | -