「話し合い」の実現③

「話し合い」の実現というテーマで、色んな実例を検討してみると、「自己が混じると話し合いにならない」ということが浮かび上がってきた。

例えば、料理を作ったAさん。
Bさんが、「この料理、もう一つだね」と言った場合、Aさんはどんな風に聴くことが、話し合いになっていくことになるのだろうか。
自覚ない場合、「えー、これはレシピに書いてある通りに作ったのよ」とるのかもしれない。
もっと「自分」がくっついている場合は、「料理を作った私がダメ」「私がもう一つ」と言われているように受け取る場合もあるだろう。「もう、二度と料理なんか作らないから!」なんて発展してしまう場合もあるかもしれない。
反発する場合は、「あなたなんか味が分からいくせに!」と相手に矛先が向く場合もあるかもしれない。

Bさんは、料理についての感想を述べている。
Aさんは、Bさんの言わんとするところを聴こうとするのが、話し合いにつながる聴き方であろう。
それを、料理そのもののこと聞くところが一つの間違い。
それにプラスして、「自分が作った料理」という捉え方から、「そうか」と聴けないようになってしまうようだ。
料理を作っていない人にとっては、「ふーん」とか、「そうか」という感じなのだろうが、料理を作った人は、自分とくっついている分、過剰に反応するのかもしれない。
これは聴き方というところでも、どのように聴くことなのかというところも解明する必要があるだろうし、料理そのものに対しての、「自分が(作った)」という捉え方自体にも、光を当てる必要があるのかもしれない。

別の例。
A:木曜に来たメールを見て、ずいぶん○○だと思った。
B:木曜日じゃないよ、金曜日だよ。
(Bさんが、仕事でそのメールを送った)

Bさん以外の人にとっては、メールが木曜か金曜日かということよりも、Aさんの「ずいぶん○○だと思った」ということが、Aさんの言わんとするところかな・・・と聴いていたが、Bさんは、「え、木曜じゃないよ。うーん(記憶をたどる)、確かに金曜日だ」と、Aさんが何を言わんとするかを聴くというよりも、メールを出したのが木曜か金曜だったかというところに関心が行ってしまって、それが言いたくなる(訂正したくなる)状態だったようだ。

自分が出した、自分が作った、自分が関わった・・・そういう事になると、相手の人が言わんとするところを聴くところにスッといかず、自分のしたことは○○だ、自分はこういうつもりでした、自分は○○だ、自分は・・・、と、自分・自分のオンパレード状態に陥りがちだ。
どうして、こう「自分」「自分」と入るのだろうか?

「自分」そのものを知らない、「自分」が大きい状態、実際に関心が向かない、向きにくい状態にあるということなのだろうか?

「自分が」という”我”が入り込むと、「話し合い」の実現の妨げになるということは、段々に明確になってきた。
そこを先ずは自覚できること。
そこから、その原因は・・・、取り除くには・・・と進んでいけるのだと思う。
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