研鑽生活を考える。

研鑽社会を実現しようと願うならば、研鑽そのもの、研鑽生活そのものを、知る必要があるのだろう。
知らなれば、実現できない。
気持だけでは・・・。

”研鑚会”と称する機会があるだけでは、それは”研鑚会生活”は実現できるかもしれないが、研鑽生活になっているかどうかは、検証が要るだろう。
いくら話し合う機会のある職場を作っても、そこに研鑽し得る人が実在しなければ、実質上の研鑽は実在しない。
最近の研修機会に、ある職場の人が来ていたが、そこの職場では話し合える職場を目指して、毎週研鑽機会があるそうだが、そこにいる人が、自分達が作った製品に対しての意見(クレーム?)が来ると、「そんなことはない!」「自分達はこうやっている」と、全然話を聞き入れられない。こういう態度・状態では、話し合いの職場は実現しないだろう。
機会があることも大事な要素なのだろうが、それ以前の要素が大事であることが浮かび上がってくる。

研鑽ライフセンターでやっている内容と、実際の職場での色々決済しなければならない内容と、別のものと映っている人も多々いるようだ。
これも、研鑽や研鑽生活がどういうものかが、まだ未消化、未理解だということなのだろう。

まず、個人の方で出来ることと考えた時(社会からについては、また後日)、やはり、どんな時も(仕事でも、暮しでも)、正常な状態の自分であるのかどうか、つまり、研鑽態度の自分であるかどうか、それはつまり、自覚のある状態かどうか、ということになってくるのだと思う。
自分の感覚、思うこと、考えること、これが、自分の中で起こっていることが自覚できている状態、つまり、人間の考えであることの自覚、人間の範囲を超えない状態、そこに立っている状態かどうか・・・、そこがあるかどうか・・・、そこを出発点にしているかどうか・・・。
そこがなければ、いくら”研鑽”と称する場を持ったとしても、研鑽は実現しないだろう。

真に正しい考え方に立つことである。これに始まる革命を、Z革命と一応呼んでいるわけである。そこから派生していろいろの考え方が生まれ、方法や行為が実現する。(『考え方の革命(山岸会事件雑観)』)


正しい考え方に立つ人(自覚のある人)は、何をしていても、そこをキメツケなく、自分の感覚・考えとして、つまり、一個人の意見として、幅ることなく、検討していける。自覚の無い人は、良かれと思ったり、謙虚なつもりで、無意識的にキメツケ、幅ってしまう。
「研鑚会があるか、ないか」の前に、先ずは、真に正しい考え方=自覚のある人がいるかどうか、そういう人になるかどうかが、研鑽、研鑽生活の実現には欠かせないと思う。

先ずは、自分の感覚であることの自覚がある人、それはつまり、自分の考えは正しいとは言えない状態(理屈じゃなく、そういう態度の状態)に成り合うこと。
ここが本命でもあるし、そこからしか始まらないとも言えるのではないだろうか。
そこを抜きにしての活動は、この革命からは、何の意味もないことになってしまうのだろう。
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