研鑽生活(研鑽ライフ)は何処に?

研鑽ライフセンターの合宿研や研修や日常化レッスンで一生懸命取り組んだり、考えたりする。
が、日常の職場や生活では、そこで取り組んだことが、ぼやけてしまう。

研鑽ライフセンターの研鑽機会に、職場から人を送り出すことに力を入れても、しばらくはいいが、元に戻ってしまう。研鑽社会はなかなか実現しないようだ。

このような事例を耳にMにすることがある。
これは、どこにテーマがあるのだろう?

ある人が、「合宿研などで一生懸命やるんだけど、帰ってから一ヶ月くらいは、ボーっとしてしまう」と話をしていた。
これでは、合宿研に行くことが目的のようになってしまっている。
何のための合宿研か?
日常が研鑽生活になるために研鑽ライフセンターがあるのではないだろうか。
日常化レッスンでも、研鑚会に来て何かを考えよう、得ようとしても、何も進まない。「日常がレッスン」で、研鑚会は「報告・検討会」。そういう日々の、自主レッスンがあって、検討する機会があり、そういう積み重ねがあって、日常が自覚のある暮らしになり、そこから研鑽生活が展開していくのだろう。

研鑽ライフセンターでやることと、職場や日常でやることは、別というような、二分法的な考え方も、邪魔をしているのかもしれない。
「考えたり、検べたりは、研鑚ライフセンターで。職場では、そんな暢気なことは言ってられない。やることもたくさんあるし、稼がないといけないし・・・」
こういう考え方では、いくら研鑽会に参加しても、何も変わっていかないだろう。
研鑚会頼み、依存的な体質で参加しても、その場限りのものになってしまうのだろう。

研鑽生活は、研鑚会に行ったら、出来るようになるわけではない。
研鑽生活をしていこうとする人によって、研鑽生活が生まれてくる。
そういう人になろうとする人には、研鑽機会は欠かせない場になる。

研鑽社会化活動をなさんとする人は、自らの研鑽生活が軌道に乗り、周囲・社会の人達も、そういう道に乗れるように働きかけていく人なのだろう。
産業活動や、運動を、従来の観念の基盤の上に組み立てていても、研鑽社会化活動にはならない。
産業活動も、運動も、暮らしも、すべて、自覚のある人により、研鑽生活が展開していく。
出発点がどこにあるかなのだろう。
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