内観法について Ⅲ

 内観法では自分を観察する時のテーマがあって、そのテーマにそって自分を観察していく。たとえば母に対する自分を調べる(観察する)時、母にお世話になったことというテーマで調べていく。具体的に細かいところまで調べようとする。誰も教えてくれないし、理屈で考えてもはじまらない。自分で調べる。調べることに集中する。内観法でやることといったらただそれだけだと言ってもいいと思う。

 だれでも最初この集中するということがなかなかできない。いろいろな雑念が湧いてきてすぐテーマから逸れてしまう。調べることから外れてしまう。普段からいろいろな研鑚会に参加してテーマについて考えるということをやっていたつもりでも、なかなかそのテーマに集中できない。屏風の中という特殊な環境に入り余計に集中できないということもあるのかもしれないが。でも、このことから自分自身振り返ってみると日常の暮らしの中で、また研鑚会に参加している時でも、如何に自分の意識(気持思い考え等)が散漫に動いているかということが逆に見えてくるようだ。

 テーマに集中していくのにも過程(段階)があるようだ。雑念がしきりに湧いてきてテーマを全く忘れてしまっている状態、テーマを意識しはするが思い考えがすぐそこから逸れてはまた気がついてテーマに戻るみたいな状態、この状態では調べるということには全然なっていない。次にテーマを意識し調べようとするが、思いめぐらすだけで実際はどうかと調べるには至らない状態。そういう過程を通ってやっと焦点が絞れてきて、実際はどうか実際はどうかと調べていける状態になる。

 ここで言う状態とは心の状態と言ってもいいのかもしれない。集中できる心の状態、調べるということに集中できる心の状態。先日内観コースに参加したある人が今回の研修に参加していて、「以前にもまして研鑚会に集中できるようになった。内観コースに参加したことが大きかった」というようなことを話していた。調べることのできる心の状態になる。内観法で屏風とか用意して特殊な環境を用意するのも、調べることに集中しやすい環境を用意するということだが、そういう環境の中で「調べることのできる心の状態を培う」ということこそ内観法の目的だと言っても過言ではないと思う。
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