内観法について Ⅱ

 内観という言葉からして違和感を持つ人も多いと思う。それに部屋の隅に屏風を置いてその中に入って一日中座っているという話を聞くだけで、何か嫌なイメージを持ったり宗教くさく思ったりする人も多いと思う。また一日中じっとして座っていることが、毎日毎日忙しく動きまわっている人にとってはとても考えられないこと耐えられないことに思えて身を引いてしまう。

 でも内観といったところで、平たく言えば自分の内(心)を観察するということだし、屏風の中に座るのもそれに集中するためのことでそれ以上の意味はない。集中して自分の内を観察するための環境として考えられているだけのこと。ただやはり集中できる環境としては、多くの実績もあるようだし、その方法が踏襲されているにすぎない。

 こんなふうに簡単に言ってしまっていいのかなとも思うが、要はその形態にあるのではなく、実際どれくらい集中して自分の内を観察できるかということにある。この自分の内を観察するということ、それは自分の内を調べるというふうにも言えると思うが、そのことの実質がどういうことなのか、またそこに集中するということがどういう状態なのか、そのあたりのことをもっと見極めたいものだ。

 自分の内を観察する調べるというふうに同じ言葉で表現しても、その観察の仕方や調べ方は人様々だと思う。でも調べる時のポイントはいくつかあるように思う。その中で「人間の思い考えと事実は別」ということの自覚があるかどうかということが第一のポイントのようにも思う。この点は今各地で行われている内観で(日本以外にもひろまっていっているらしいが、)明確に意識されているかどうかは分からない。でも内観する中で人の見方考え方が転換するということはとりもなおさず「人間の思い考えと事実は別」ということ、そのことの現れとも言えるのではないか。

 でも内観で気付けた思えたと言ってそこにとどまってしまうことも多いようで、その時の見方の転換によりある種の開放感を味わうが、今度はまたその見方に固定してしまう。それだから一週間の集中内観のほかに日常内観ということが言われ、調べ続けるということの大切さがしきりに強調されるわけだが、大切云々の話ではなく、やはり調べ続ける生き方の実現を目指したいものだ。調べ続けることは気付き発見の連続なのだと思う。「人間の思い考えと事実は別」ということからみればそれはあたりまえのことだと思う。人間ならではの味わいというか・・・。
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