内観コースやってみて

内観コース第三回目をやってみてのメモを何点か。

〇自分の姿を正視(直視)することの大事さ。
「自分はこういう人だ」と自己認識をして、そうでない自分は認めたくないという心の働きがあるのだろうか?どうも自分の都合の悪い記憶は、意識化に押さえ込まれてしまうことがあるようだ。
過去の自分を検べていくと、自分の姿が段々に浮かび上がってくるのだが、随分とひどい実態の自分も見えてくる場合がある。(ひどいというのも、今の自分の観方から見たものだが)自分のことを「いい人と思っていたい」というような心の働きがあるのだろうか(このへんも、いったいどういうことなのか検べてみたいが)、そういう自分の姿を認めたくない、もう少しましな自分だと思っていたい、そんな気持が潜在的に起ってくる場合もあるようだ。
そこを乗り越えて、自分自身のありのままの姿を直視する、正視するというのが、自分を知るという意味では、とても大事だし、そこが出来た人は、人格的にも成長していくし、明るく、軽い姿になっていくようだ。
どんな自分も自分自身に相違なく、そういう自分も含めて自分である。
その時々で色んな心の状態になり、その心の状態で様々な自分が現われたりする。そんな自分をそのまままるごと見れる(受け止める)ことが、自分を知ることの先ず第一歩かと思う。先ずは、いいも悪いもなく、あるがままの自分の実際の姿を見る、知る、そこから、次に進んでいけるのだと思う。
内観コースに3回連続参加した人も、自分を検べる際にいつも避けて通るような時期があるのが気になりだして、今回本格的にそこに向き合ってみて、その時期の自分の姿がやっと浮かび上がり、無意識的に封印(抑圧)されていた記憶が見えてきた。そういう自分も丸ごと認められることで、新たなる自分というか、すべてを受け入れた統合された自分というものが生まれてくるようだ。

〇実際の姿を見ようとすること。
近い人に対しては、してもらっていること、世話になっていることなど、あまりにも当たり前になっていて、実際の姿がなかなか見えない場合が多いようだ。(ここが見えてくるには、そういう回路を作らないと、見えてこないのだろう)例えば、「高校に行って勉強した」という自分がした行為の背景には、学費を払ってもらったり、交通費、教科書、文房具、毎日の食事・弁当、洗濯、衣服、お風呂、小遣などなど・・・様々な数限りない様々な人の世話により成り立っているのだろうが、そこに目を向けないと、そういう実際のことは、あまりにも当然のことになってしまって、あるものが見えない。
見えないと、自分が大きくなり、人の存在がない、「自分がやったんだ」というようになってしまう。そこが見えてくると、自分が小さくなり、「自分がやった」なんて、あまり大きな顔して言えなくなるようだ。

〇自分を客観視すること。
内観も深まってくると、ある場面でのその人と、自分の姿が客観的に見えてくる。そして、自分の心の動きも、今の自分から見えてくる。
「自然に湧いてきたのはこういう気持ちだけど、でも、〇〇しなければ・・というのがあって、あんな行動をしてしまった」という感じで、その時の場面がくっきり見えてくる。そこで、その場ではそうとしか考えれなかったり、そのことからこうだとなって固まってしまっていた考えなどでも、今の自分から見直すことができるようになる。「なんだ、もっとあんなふうに考えれたのか」とか、「そう思い込んでいたけど、こうも考えれる、ああも考えれる」というように、自由に見れるようになる。執われた状態から解放されるという感じだろうか。
過去のことでも、そこを見直す機会がないと、そこに執われた頭の状態でずっといる場合もある。見直す機会がないと、ずっとその回路があり、同類の場面に出会うと、ワンパターンで反応してしまうということもあるようだ。
その場面や、回路を見直すことができると、そこから解放され、自由に考えていけるようになる。
過去を見直すことで、現在が自由になるような作用があるようだ。これは、実に面白いなと思った。

とりあえず、ここまで。
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