―― 豊かさ 喜び ――

2007.06.15 Fri

豊かさ や 喜び

怒り、争い、悩み、憎しみ、闘争心、支配欲、独占欲、優越感、劣等感、・・・等々を、性(サガ)、業(ゴウ)、煩悩、などと呼んで、人間に具わったもの、あってしかるべきもの、という意見には賛成できない。

むしろ、これら(怒り、・・・・、煩悩、など)は、異常、間違い、病的、というべきで、人間本来の姿から外れたものと思う。
精神的疾患の病名みたいなものだと思う。
「こういうものは人間には付き物だ」としている限り、人類から紛争・苦悩は解消されないだろう。
やがて、精神科学や心理学が進歩すれば、これらの疾患にみな原因と療法が見付け出されるだろう。


幼い頃から植付けられた観念の蓄積によって、物や環境や人の行為など、「有って当り前」「やって当り前」になっている。また、自分の頭がそうなっている自覚もない。
生活には不可欠と思うような、電気・ガス・水道・ゴミや排水の処理・道路整備などなど、ずいぶん人も物もかけて用意されている。それらも、有って当り前、うまく行っていて当り前。思い通り行かない時の不満は大きい。

安心・満足を欲していながら、不安・心配・不平・不満がある。
そとに原因を置いているから、不安や不満があるのを異常とも病的とも思わない。むしろ、この状況だから、不安や不満は当然としている。
娯楽番組に浸り、美食で腹を膨らし、酒をあおりつつも、不平や悩みが絶えない。充分な食もなく、教育も受けられない地域の人々とどちらが悩みや不平が多いか比べてみれば分かる。物や教育では不安や不満は無くならない。

不平・不満なく楽しく満足そうにしていても、それは一時的なもので、思い通りになっている状況でのこと。思い通りに行かないと不平・不満が出る。「安心や満足は自分の思いを満たすこと」のように思っている。いつもいつも一時的な満足感を追いかけている。

多くの物や環境や人の行為の中で暮らしていても、殆どが「当り前」で、それ以上のものを得て満足しようとする。得られないと不満となる。


今以上に得られなくとも、今以下になっても、物は無くならないし、無数の人の行為の恩恵を受けている。

人は生まれながらにして、衣食住に恵まれ、周囲からの愛情を受け、安心・満足の内に人生が始まる。そして、精神的に、肉体的に、膨大な物や人の行為を受けて成長していく。
周囲から齎されて受けたものがギッシリ詰まった恩恵の塊のような一人一人。
子どもの頃の嬉々として遊び戯れる喜びから、青年期の血気盛んな躍動する喜び、知性を培い人生の豊かさを知り、人生を重ねる程にその人間的豊かさ生きる喜びは、果てなく増すばかり。

「豊かさ や 喜び」は自分の思いに振り回されて追い求めるものではないと思う。
豊かさ や 喜び はどこにあるか。

2007.06.13 Wed

初心

困っている人がいたら、手助けする人がいたらいいと思う。
相談したい人がいたら、相談にのる人がいたらいいと思う。

しかし、その人の頭の中で、手助けするのが当然、相談にのるのが当然、となるとどうなるか・・・。

物でも人の行為でも、最初はその価値を感じる。
見慣れて当然になる。価値を感じなくなる。
有るものがありまま見えるのと、有って当り前となっているのとの違い。

自分を知らない、その物を見ようとしない自分を知らない。
例えば、お金を払ってるからガスや電気も使えていると思っている。
お金を払ったくらいで、ガスや電気がくる訳がない。
有って当り前となっているものが無くなったり少なくなったりすると、おのずと不平・不満が出る。さびしくなる。

自分を知らない。高いところに居座っている自分を知らない。
自覚がないという観念・心の状態は生活の全てに現われている。
物の扱い、人の行為、対人的こころ・・・・。

有って当り前、やって当り前。・・・・・・無自覚
      ↓
物や人の行為が見えない。見ようとしない人間性。人格。
      ↓
物や人の行為を無にする。生かせない。   資格がない。

人間が人間性を発揮して、人間らしく生き、他からの力や決め事や観念で人を動かすのではなく、一人一人の知性ある自覚からの行動によって、保ち合いで成立する社会には、この要素が不可欠と思う。

今の人間社会は、アメとムチで人を動かす社会だから、自覚も人格も資格も要らない・・・?

そういう社会は、おさらばして、人間本来の姿 それに適った人間社会を実践して実証したい。

2007.06.10 Sun

観る一線 と 幸福度

物や環境が揃えば、豊かになるかといえば、そうでもない。

揃う前は何も無かったのだから、やってきただけ、有るものがあるだけ。
研鑽会も、会社や仕事も、仕組みやサポートも、足りないとか、出来ていないとか、何もない。みんな有るものばかり。

どこを見ているか、何を見ているか、だと思う

2007.06.09 Sat

無いで当り前で、安定・安心

ある日のニュースでのこと。車椅子の人が電車の乗り降りの時、駅員が介助しなかったと訴えた。そして、駅長さん等が頭を下げて謝罪した。

周囲から大事にされて「手助けされて当り前」という観念になっているとしたら、その車椅子の人は、とても不幸だなと思う。


福祉の充実を取り違えて、「してもらって当然」と威張る国民を増産して、そこからくる不平・不満への対応に忙しい行政。
これでは、豊かな人はできないし、むしり取られるばかりで豊かな社会はできない。

中には、不備や不手際を指摘して、不平や不足を言うことで社会が改善されると思う人もいるみたいだが、改善するのは国民以外にいるのだろうか。


常識観念や社会通念で、みんなが「当り前だ」としているので、「当り前だ」と自分がキメツケている自覚がない。

あてにしてない状態で、物をもらったり、食事や洗濯をしてもらったり、手助けされたり、協力されたりしたら、どんなに嬉しいと思うだろう。
しかし、物が豊富になり、制度や環境が整うと、有って当り前、してくれて当然になる。お金を払ったんだから、自分はこれだけやったんだから、仕事なんだから、約束したんだから、家族なんだから、ここの社員なんだから、規則でこうなってるんだから、・・・・

日常生活の殆どが、「有って当り前」「やって当り前」になっている。自分の当り前の基準を下回ると「無いのはおかしい」「やらないのはおかしい」と不平・不満となる。
「有る物」や「人の行為」が見えなくなる。
「有って当り前」「やって当り前」になると、「物の豊かさ」も「人の行為への喜び」も、どんどん薄れていく。
「豊かさ」や「喜び」が薄れていくということは、「幸福」とは逆方向だということは言うまでもないと思う。

感謝したり、ありがたく思いなさいという精神修養ではない。
有る物や人の行為が、ありのまま見える正常な普通の人になろうということ。


「幸福」には、「豊かさ」や「喜び」は必須条件で、かなり大きな部分を占めると思うが、幸福を願って良かれと思って、豊かさや喜びのない暮らしへと逆行しているのではないだろうか。

「無い」ということを、「寂しい」とか「貧しい」と思う人がいる。
しかし、「無くて当り前」あてにしていない状態というのは、がっかりすることも、不平や不満もない。全てが「有る」「有る」の豊かな状態だと思う。

金が無いとか、人がいないとか、食べ物はご飯しかない、飲み物は水しかない、言った通りやってない、少ししかやらない、あれがない、これがない、と思う人は、自分の基準線以下の物や行為が見えない「上げ底の人」だと思う。
上げ底の人は、すぐに不平・不満・不足が出て、さびしく貧しくなる。
あの人も上げ底だなぁ、この人も上げ底だなぁ、・・・
上げ底の人には近寄りたくないねぇ。喜びあふれる豊かな人に・・・

人間、もともとは底をついている、ゆるぎない安定・安心の上に生きている。
人類幸福の根幹に関わる、簡単明瞭すぎて軽視看過している重大問題と思う。
1/1
▲ page top