【 対人感情 についての研究】

間違いや過ちよりも、その当事者が、謝ったかどうかを問題にする。
キチンと謝ったりすると、却って褒めたりもする。
謝らないことで、その人を責めたりもする。
謝っても謝らなくても、してしまったことは何も変わらないのに。。。
何を重視しているか、その当事者に何かさせたがっている。
その当事者が、○○○したら自分の気が済むんだろうな。
そういうことを社会的責任という言葉で正当化してる。
「なぜ?謝るなんて重視するのだろう?」と調べないで、
「当然だ!」で済ませている。

「責める」は「攻める」に似ている(精神的に攻める)
「責める」も「攻める」も、相手に勝つため。相手をやっつけるため。
「謝らせる」も「責める」に似ている。
間違いや過ちをしたら、当人を責めないと、当人に謝らせないと、当人にとってよくないとしている。
でも、実は、謝らせないと自分の気が済まない。責めないと自分の気が済まない。
当人を責めて、当人に謝らせて、気が済むって、どういう心理状態なのだろう?
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【 土曜 研究会 】

※ 「思い」と「感情」
だいたい普段は、思ったこと(考え)を言うけどね。
それより先に、まず「感情」がある。
その感情を正当化するような思い(考え)を言うことが多い。
「冷たくて美味しい」 「ぬるくて不味い」 なんかも、
「冷たくて・・・」 「ぬるくて・・・」 は、後付けの考えだよね。

※ 対人感情
人をほめる場合も、批判する場合も、まず、自分の感情があるでしょ。
その感情が一番肝心、重大問題。
人のこと言う場合。自分の感情の元をもっともらしく、理由づけ、正当化。
聞く方もそれを聞いて、その人の思い(考え)を受け取ろうとする。
自分の感情を観ていない。聞く方も、その人の感情を観ていない。
発言や考えの内容よりも、その人のその時の【対人感情】は・・・?

子どもなら、理屈やしつけより、親の対人感情が移植・投影される。
社会気風というのも、そこの人たちの対人感情が空気を作っている
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【 土曜 研究会 】

人間社会での問題は、すべてが、人と人との間の問題。
自然災害や突発事故も重大問題だけど、それに対する人の関わり方で更なる問題に・・・。
個人間の痴話げんかも、国家間紛争も、みな人と人との仲が良くないだけ。
そこに焦点を当てずに、事柄を問題にしていることが多い。

人と人との問題、即ち、不仲、仲たがい、争い。
動物の闘争は、食糧や縄張りやメスの取り合いくらいだろうか?
人間の争いは、精神面・心理的なもの。(動物の争いとは異質)

「責める」と「攻める」の語源は同じらしい。
攻め合い・・・物理的な戦い
責め合い・・・精神的な争い(人間だけだろう)

「責める」とは、どういうことか。
間違いや害を及ぼしたら、なぜ「責める」のか?
「責める」必要があるのか? 「責める」と良くなるのか?
人の世の問題=心理的問題=人と人の不仲=責める責められる。

ここからが、人間社会の秘鍵かな。。。
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【 土曜 研究会 】

社会活動に熱心な人が、各地から訪れるようになった。
いろんな人、いろんな団体、いろんな活動、繋がりの輪を広げようとしている。
そうすれば、今までにない新しい動きが生まれる・・・とのこと。
確かに、そうかもしれない。
でも、なんとなく、淡い期待を追ってるだけのような気がするね。
「今までにない新しい・・・」って、それで、何か価値あるのかな?
いつまでも新しくはない。一時的なもの。その時だけのこと。

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「アズワンコミュニティ」についても、「他にはない・今までになかった・目新しい・うまくやっている・・・」等々に着目して訪れる人が多い。
でも、本題は・・・?
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人間の本質、社会の本質を探究して、それに適った人間生活、社会組織を・・・。
(過去との比較・他との比較でないもの)
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※ 人間には、本来、もともと、争いたい、仲悪くなりたい人はいない。
※ この世には、本来、もともと、どこにも隔ても境界もない。

これに、共鳴する人は多い。
では、これに適った暮らしや社会を指向しているか、どうか。

私の(あなたの)衣・食・住、物、金、家族、気持ち、考え、好み・・・、隔ても境界もなく、任し合い、譲り合い、自由自在の人間生活、社会組織を・・・。
まずは、そこに立てる人・そこをやれる人によって。
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【 土曜 研究会 】

例えば、ゲームを楽しんでる時に、
「その手はマズイ! もっとこうしなきゃ! あそこはこうだ!」・・・と、
横からイチイチ口を出されるのはウルサイよね。
人がゲームを楽しんでるのだから、それに口を出さないで、自分で他のゲームをやればイイじゃん!

アズワンコミュニティを知って、初めはイイ!と思って、暮らし始めた人が、しばらくすると、「あれはおかしい! ここはこうすべきだ!」と、いろいろ言い始める。
それなら、自分が思う通りのコミュニティを、自分でやればいいじゃんねぇ。。。

ここが、旧来の組織や団体と全く異なるところ。
「一緒にやらんならん」何ものもない。やってもやらなくても、どちらでもいい。
ひとりひとりの意志の集まり、それでバラバラになるなら、それまでのこと。
同調の人によって一致した分だけ できていくのだから、あえて、意志や意見を一致さそうとする必要がない。
「話し合いが大切」というのも「話し合わなければならない」というものではない。
話し合いたくなければ、話し合わないだけのこと。
旧来の常識観だと、こんな簡単なことが通じない。

「こうすべきだ! 運営はこうあるべきだ!」と、自分以外の他を動かそうとする。
正義感や熱意が強い人ほど、「良いことしてる」つもりで、他に強要している自覚がない。
「アズワンコミュニティはこうあるべきだ!」と、内からも外からも強いられる筋合いは何もない。
「一緒にやる」という根本的なベースが問題。
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