研究所サロンに参加して Ⅳ

 「教える」という話のとき、「自分で自分に教える」ということも出ていた。「自分はダメだと自分に教える」「自分は劣っていると自分に教える」とか。

 自分で自分に教えているのなら、自分で(教えるのを)止めたらいいだけだと思った。そしたら、例えば劣等感というのも消えていく。

 僕がそんな話を出したら、佐藤さんが「<自分をみる>ということがある」みたいなことを言った(ように聞いた)。

 順序があるなと思った。「自分で自分に教えている」自分がみれなかったら、教えるのを自分で止めることはできない。「自分で自分に教えている」自分がみえたら(気付けたら)、教えるのを自分で止めることができる。「自分で自分に教える」自分から開放される。劣等感からも開放される。原理的には簡単だ。

 でも<自分をみる>がなければ・・・
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研究所サロンに参加して Ⅲ

 スライドに書いてあったかどうかは覚えていないし、佐藤さんがどんな言葉で表現したかも定かではないが、自分が聞いた印象として何か残っていて、面白いなと思うことがあった。自分が聞いて受け取った内容というより、そこから自分で考えたことになるかもしれないが・・

 人には、自分(自分の中・自分の頭の中)を観る能力がある。
 
 人の中(内面・頭の中)を表す言葉(概念)は沢山ある。感覚や知覚、脳や心、気持や感情(喜怒哀楽)、思いや考え、記憶や予想、意志や欲求や希望など、多分数え切れないほどあるだろう。また文学にしても人の内面を表現しているし、心理学・脳科学等の学問も、人の内面や頭の中がどうなっているかということの研究だと言える。ちょっと乱暴な括り方になるかと思うが、要は全部、最初は人に備わるところの<自分(自分の内面・自分の頭の中)を観る能力>から産まれたものではないか。それらがその後どんなふうに展開したとしても・・

 こう考えると、改めて<自分を観る能力>というものの重要性を思う。それら言葉(概念)や学問を学ぶにしても、また自分の生き方の参考にするにしても、<自分を観る>ということがあってこそ、自分にとって意味(実)があるのではないか。

 <知る(知ろうとする)>機能というものが、人間には備わっていると言う。それにしても、自分を知るには、文学を読んでいろいろ感じたり思ったりすることよりも、また心理学や脳科学や哲学の本からいろいろな知識を取り込むことよりも、自分を観るということが先決ではないか。自分を知るということは、自分を観ることから始まる。そんなことを思った。
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研究所サロンに参加して Ⅱ

 研究所サロンに参加して、「知る」ということだけで、これだけ盛り沢山の内容があるのかと少し驚いた。それにしても、人を<『知る』存在>とする捉え方は、何かとても刺激的だった。

 何も知らないで、自分ひとりでは何も出来ない状態で産まれてきた赤ん坊(人)が、スプーンの使い方や服の着方やおしっこの仕方などなど、いろいろ生きていくために必要なことを身につけていくということも、<知る>ということだ。言葉も<知る>ようになる。人は、<知る>ことで成り立っている存在とも言えるのではないか。

 もともと、人には<知る>機能が備わっている。多分触覚が一番先に、そして聴覚、しばらくして視覚というように、次々と<知る>機能が活性化していく。這い這いし出して、そこらじゅうのものをいじくり回したり、舐めたり、自分で歩けるようになって、言葉も覚え、外で遊ぶようになって、学校にも行って、仕事にも就いて、いろいろ<知る>。その過程で、気持や感情や考えなども<知る>とは言えないか。自分を<知る>。人を<知る>。社会を<知る>。人が成長する過程は、人がいろいろなことを<知る>過程とも言える。<知る>があってこそ、今まで生きて来れた。今の生活がある。

 もちろん、回りにいろいろな人がいて、またいろいろな物があって、いろいろなことや物を受けて育って来たとも言えるわけだ。服の着方や箸の使い方や、遊び方から勉強の仕方から仕事の仕方から、また言葉にしても、周りの人から受けてきたものだ。人はすべてを受けて育つ存在だ。すべて受けることで今がある。今の気持や感情や考え、そのもとの観念や心の状態なども受けたものと言える。

 このように、自分という存在は周囲社会からすべてを受けている存在という認識が、最近自分の中でも強くなってきてはいたが、きのうのサロンで佐藤さんの話を聞きながら「受けることは知ることだ」みたいなイメージが自分の中に出てきた。

 どのように受けたか、どのように受けるか、どのように知ったか、どのように知るか、そこに受け方知り方のテーマが出てくる。

 受けることで、知ることで「分かった」「知った」「知っている」となるのか、そうならないか、ここが分かれ目のようだ。「分かった」「知った」「知っている」が、人にもともと備わった<知る(あくまで知ろうとする)>機能を止める。知性の働きを止める。ここが、どんな自分になるかの分かれ目、ここが、どんな人生になるかの分かれ目、ここが、どんな社会になるかの分かれ目。

 <「知っている(と誤解する)」人が構成する社会>と<「知り得ない(という自覚を持つ)」人が構成する社会>との違い、<「知っている」人の観念の状態>と<「知り得ない」人の観念の状態>との違い、<「知っている」人の心の状態>と<「知り得ない」人の心の状態>との違い、何かそんなことも思った。
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研究所サロンに参加して Ⅰ

 「人は『知る』存在」という話があった。話を聞いた自分の印象を、自分の主観で表現すると、産まれたときには何も知らない。成長する過程はいろいろなことを知る過程と言える。生きるすべを知る、生活の仕方を知るといったらいいだろうか、そう考えると、人は知ることで成り立っていると言えるなと思った。

 孫のことが頭に浮かんだ。孫は生後二ヶ月もたたない。何も知らないで産まれてきたばかり、まだほとんど何も知ることのない存在が身近にいると思って、そういう観点で孫を観ると何か面白そうだなと思った。

 そのあと、人は「知り得ない」存在という話もあった。

 研究所サロンの最後の感想で、誰か(2人ぐらい)が出した「自分自身の<知らない>という状態の自覚」(これも、その人がこんな表現したかどうか覚束ないが・・)というような話が何か印象に残った。

 今少し前にどういうわけか「アレッ?」と思った。佐藤さんが「人は『知る』存在」と言うのを聞いて、なるほどと思って、孫のことを思い浮かべていたときの自分は、人はそういう存在(「知る」存在)だと知ったつもりになっていた自分ではないか?・・自分は「知っている人」になっていたのではないか?・・

 人は「知る」存在であり、また「知り得ない」存在である、ということを、孫のことよりも、先ずは自分に即して調べてみなければ、と思った。
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⑦観点というもの

 観点というものについて、自分を観て検べる場合に限って考えてきたが、自分以外の対象(人や物や社会や事件など)を観る場合にも、観点を持たないで見たり聞いたり、また思ったり考えたりするということはほとんどないのではないか。

 観点という言葉を広辞苑で調べてみると「観察・考察するときの立場や目の付けどころ。見方。見地。『観点が違う』『観点をかえる』」とあった。人や物や社会を観たり考えたりする場合には、意識するしないに関わらず、何らかの立場に立っており、またその立場の違いによって目の付けどころも違ってくる。観え方聞こえ方捉え方が違ってくる。

 人が何かについて、それは何だろう、どういうことだろうと捉えようとするとき、そこには観点が要る。ある観点に立ってこそ、そのことについての思い考えが頭に浮かぶのだろう。研鑽は無固定前進の考え方と言う。その意味は研鑽の中では、この観点というものが固定されないということのように思う。今まで、研鑽というものについて、頭に浮かぶ表面の思い考え主張にとらわれないという程度の認識であったように思うが、その内実は観点が固定しないということとも言えるのではないか。観点が固定しないから、いろいろな観点から、いろいろな角度から物事を捉えられる。いろいろな角度から物事が浮き彫りになってくるから、いろいろな可能性も観えてくる。

 ここで研鑽の実現、言ってみれば観点を固定しないということは如何に実現されるかというテーマが出てくる。物事に対処するときなどには、自分の感覚であることの自覚の上に、さらに、その事を自分はどういう観点に立って、どう捉えているかということの把握(認識・自覚)が要るのではないか。

 ここまで来ると、ひとりではなかなか成され難いのではないか。多くの人(観点)の集まる研鑽会においてこそ、自分の観点の自覚や、いろいろな観点の可能性も生まれやすいのだろう。現実の組織の運営・経営において研鑽会が欠かせないというのも、案外この辺の理由からかもしれない。
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