委し合える(人たちの)社会

社 会 観 | - | -

「この薬を飲んだから熱が下がったの?」ということについて

日常会話の中に、「この薬を飲んだから熱が下がった」とか「この栄養剤を飲んだから元気が出た」という話をよく聞くことがある。
これも迷信・誤診の類なのだろうか?
この薬を飲んだ、だから、熱が下がったと言えるのだろうか?。
つまり、この関連は、因果関係があるのだろうか?

☆因果関係とは、原因とそれによって生ずる結果との関係のこと。

これは、因果関係があるとは言い切れないのだろう。
なぜなら、飲まなくても自然に下がったかもしれないし、他の要因も絡んでいるかもしれないから。

これを科学的に実験してみるという場合はどうなるのだろう?
「その薬を飲まずに三時間待機した数十人」と「その薬を飲んで三時間待機した数十人」を比較して、そして統計的にみて効果があるかどうかを調べてみるそうだ。
しかし、これで証明できるのは、統計的に有意味な相関関係の有無だけらしい。つまり、この薬を飲まない場合は○○%の人が熱が下がり、飲んだ場合は△△%の人が熱が下がるということから、統計的に有意味な相関関係があるかどうかを判断するということになる。
統計は相関の強さを扱う学問にすぎず、因果については何の保証も説明もすることは出来ないそうだ。つまり因果関係は実験科学では絶対に証明できないということになるらしい。

☆相関関係 一方が他方との関係を離れては意味をなさないようなものの間の関係。

相関関係があると、その元に因果関係を推測したり、仮定したりするのは、人間の脳の働きなのかもしれないが、それはあくまで人間の考え出したことに過ぎないということになるのだろう。

相関関係があるとするのも人間の判断。(科学的にやれるところ)
そして、相関関係の元に因果関係を見いだすのも人間の判断。(科学で証明できないところ)
人間の判断でしかないことを恰もそういう関係が実際にあるとみてしまうところに、迷信・誤信が生ずる一因があるのだろう。
迷信・誤信についての考察 | - | -

「今日はついている」「運がいいぞ」ということについて

外界の様々な情報に接し、その中から法則性や規則性などの秩序を見いだそうとする傾向は、人間の脳の持つ認知的機構に組み込まれたものらしい。
しかし、この傾向を自覚しないと、自動的にこの傾向が働いてしまうが故に、実際には存在しないパターンや規則性・関連性までも見いだしてしまうことがしばしばあるようだ。

様々な情報の中から、秩序や法則性を見いだそうとする傾向は、それを実際に照らして検証していこうとする態度があれば、人間がより良く生きていく上ではとても有効・有用な能力なのだろう。(科学はそのように進歩してきたのだろう)
だが、日常の暮らしでは、そのような自覚なく、このような傾向から見いだしたものを仮説としてではなく、確立した事実として見なすことが多々あるようだ。

例えば、日常会話の中でも、よく「ついている」、「ついてない」、「運がいい」、「運が悪い」等という事を見聞きすることがある。

コイン投げの場合で考えてみよう。(20回のコインを投げる場合で)
コインの表が、四回とか、五回とか、六回も連続して出たりすると、「今日はついているな」とか、「運がいいな」とか思ったりする人も多いかもしれない。

が、確率論的には、コインを20回投げた時に、表が4回連続して出る確率は50パーセント、5回連続することも25パーセント、六回連続する確率も10パーセントあるそうだ。

六回も連続して表が出たりすると、「今日はすごく運がいい」と思ったりするが、偶然でも10パーセント(十回に一回)の割合で、そういうことが起こる訳だ。
「裏表が交互に出やすい」とか、「表裏は同程度に出やすい」という誤信から来る直観に比べて、ランダムな系列は、連続が起こりすぎているように見えることになる訳だ。
そして、そういう事態を説明するために、十回連続して表が出たりすると、とても偶然とは思えないで、「運」とか「ツキ」というような、偶然以外の原因を持ち出して、こういう超自然的な要因によって、このような「滅多に起こらない事」が起きたんだという説明をしようとする。が、十回連続lして表が出ることも偶然でも起こり得ることで(パーセントは確率論に詳しい人、ヨロシク)、運やツキの力でそうなったかどうかも検討しなければ分からないことなのだろう。
だが、偶然による出来事がどのようなものであるかについての間違った考え方(誤信)をしているので、すぐに運やツキ等の超自然的要因に起因するような思考法で考えてしまうのだろう。

よく考えてみると、「運」とか「ツキ」というのも、あるのか無いのか、どういうものかよく分からないものだろう。(分からないから、無いとも言えないのだろうが・・・)が、よく分からないものを根拠に、次の事象が起こったとは説明づけられないだろう。

コイン投げの場合、表裏がほぼ交互に出るという誤った印象のことを、統計学者は、「偏りの錯誤」と呼んでいるそうだ。同一タイプのものの偏りや連続が多過ぎるように感じられるので、そうした偏りや連続が偶然によって生じたことに過ぎないことをなかなか受け入れられないことになる。
知覚的錯誤(錯視など)と同様に、気をつけて見直そうとしても、やはり間違えてしまうようなものらしい。
こういう錯誤は、ある種の客観的な測定・検証を行わない限り、錯誤を修正することは出来ないらしい。
「偏りの錯誤」は、コイン投げの表裏の割合が、長い目で見れば一定であるという法則を、短期間の場面にも適用しようとしてしまう間違いとも言えるのかもしれない。
迷信・誤信についての考察 | - | -

「あらわれたもの」と「そのもの」

1.言葉について
2.物象事象と そのもの
3.あらわれたものと その人


1.言葉について
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迷信・誤信の形成

最近『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』(T.ギロビッチ著 新曜社)という本を読んだことをキッカケに、迷信・誤信の形成について、ちょっと関心が出てきている。

この本は、「真偽の確かでない誤った考えがなぜ信じられてしまうのか?」というのを解明することを目的に書かれたものらしい。

今の社会を見渡してみると、思い込みで物事を見る,見たいものが見えてしまう、噂さを簡単に信じる、根拠の確立しない健康法や薬や化粧品を信じてしまう,効果絶大(?)なセミナーに嵌り込む、超常現象を信じ込む、みなも自分に賛成であると思い込む・・・そんな人がたくさんいるようだ。
サイエンズを志すという人の中にも、そういう要素がないだろうか・・・???

どうも、人間は誤りやすく信じやすいようだ。
信じる元は、人間の考えについての認識=自覚がないところからくるものなのだろうが、そういう次元とは別に、人間の認知・思考・推論の過程にも様々な誤解が生じる可能性が存在しているようだ。
例えば、
・前後関係と因果関係を取り違える。
・何もないところに何かを見る(例:ランダムデータに規則性を見い出してしまう)。
・わずかなことからすべてを決める(例:仮説に合う情報だけを探そうとしてしまう)。
・思い込みでものごとを決める(=期待や予想、先入観が新しい情報を解釈する際に影響を与える)。
・自分が信じたいと望むことがらを、実際に信じてしまう。
・良い話をしたいという欲求や要求が、他人に伝える情報の正確さを歪めてしまう。
・社会的承認を過大視してしまう(自分自身と同じ考えを他人が持っていると過大視してしまう。)
等々が挙げられるのだろう。

そのような人間が陥りやすい誤解とその背景構造を知ることで、人間の認知・思考・推論の習性・特徴についての理解が深まり、また、実際の自分がどのように物事を捉え、思考し、推論しているのかを観察し自覚することと相俟って、日常生活に於いて、科学的に、正しく考えることが出来るようになっていくのではないだろうか。

上記の人間の認知・推論・思考の過程についの習性・特徴について、折りを見て、もう少し詳細に検討していきたいと思う。
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