自立した社会人②

今の社会では、○○だから△△するという思考回路が染み付いている人が多いようだ。
家庭での躾や学校教育などでも、繰り返し、こういう回路で動く人間を作り出しているようにさえも見えてくる。
他動的な動機で動けるように人を訓練している社会だという感じもする。

赤信号だから停まる。
お昼だから食べる。
仕事があるからする。
こういう状況だから、やらなくっちゃ。
決まったからやる。
頼まれたからやる。
みんながやっているからやる。
訊かれたから返事する。
寒いからストーブをつける。
・・・
枚挙すればキリがないほど。
(これ等の例も、一つ一つ検討していくと、それぞれ面白いテーマが浮かび上がってくると思う)

天気予報でも、「雨は降らないでしょう」と聞いて、「降らないだろうから、傘は持っていかないようにしよう」と自分で判断しているのだろうが、意識の方では自分がそうしている自覚がなく、「天気予報で言ったから、傘は持って行かなくていい」となる思考回路。

○○だから××するという思考回路は、結果が思った通りにならないと、「天気予報では雨は降らないと言ったのに!」とか、「頼まれたからやったのに・・・」と、不平不満が出たり、相手への責任転嫁などに繋がっていくようになっているようだ。

状況がそうだからする、周囲がそうだからそうせざるを得ない、そういう回路。
周囲の状況で、自分の意思とは関係なく、動かされているような回路。
周囲の状況を”自分”がそのように捉え、”自分”の考え・意思があり、それを選択しているという自覚のない回路。

自発的自由意志⇔他発的不自由意思
自発的自由意志とはまるで正反対の意識構造になっているようだ。

このへんが解決していない人は、どうしても、「・・・で決まったから」とか、「あの人に言われたから」と、依存的に捉えて、引っかかったり、人のせいにしたり・・・となってしまうのだろう。

運営方式の考え方もあるが、このへんが解決した人がやろうとしても、「・・・で決まったことだから」と、とても自発的自由意志ではやれず、本当の自由な運営方式で考案されたものでも、不自由極まりない感じでに陥ってしまうことになるのだろう。

本当に自由な世界で生きるためには、自覚を培い、自立した人になってこそ、という道筋が、このようなテーマを探る中で、浮き上がってくる。
自立した社会人 | - | -

(研究所サロン 1.26) 発表内容の骨子

人 間 観 | - | -

第1回 研鑚科学サロン 「社会観の元となる人間観」

今日の一応のタイトルは「社会観の元となる人間観」というタイトルにしてあるんですけど
社会と人間ということで、それをテーマにしてずっとやってきて、と言うか、研鑚してきて、
人間がよりよく生きるには、僕ら人間だからね、人間がよりよく生きるにはっていうことで、
幸福に生きるにはって言ってもいいと思うんだけども
人がよりよく生きるには、っていうことを探って調べていったら、
まあ、やっぱり、社会っていうものの要素がとても大きいんじゃないか。
社会のことを抜きにして人のことね、人の幸福とか、
人が生きるってことは語れないんじゃないか、ということで、
それで、人のことをテーマにして、人のことを調べていくにも、
社会のことが重要だと、すごく大きいということで、
まあ、人と社会ということのテーマで、ずっとやってきてるんですけど。
こういうことは、言ってみたら、そりゃそうだよな、ということになると思うんだけども、
今も、意外と、例えば、自分の生き方とか考える場合でも
自分はこうして、よりよく生きていこう、正しく生きていこう、とか、
そういう風に考えたとしても、
まあ、社会ということをそのままにして
今の社会の中でよりよく生きていこう、より正しく生きていこう
自分だけじゃないだろうけど、人と共によりよく生きていこうと、
でもその、社会ということ、社会のことをそのままにして、社会ことに触れないで、
自分がよりよく生きていこうということようなこと、
それもある程度、限度がある、限界があるっていうふうに言えるんじゃないかなと思うし、
また、逆に社会運動するとか、社会活動するとか、社会を良くするとか、
いろんなグループ活動、組織活動するとかいう時でも、
人のこと、人間そのもののことをそのままにしておいて、
いろいろ社会を良くしようとか、こういう社会活動、こういう社会組織にして行こう、
それもある程度はやれるんだろうけども、
それも人の問題をそのままにしておいて、社会に力を入れるというのも、
限度があるんじゃないか、限界があるんじゃないかと、そんな風に考えるんですけど。

社会と人、社会と人と言っても、
社会そのものは、社会という何か広場とか空間とか、場があるんじゃなくて
社会というのものは、人の集まりで
社会を何かしていこうという、そういう時も、人の問題というか
人のことにどれだけ焦点が当たっているかな、っていうことが、
そういうことが重要だなと思っているんですけど。

社会と人の関係とか、人には社会という要素が不可欠だとか、
社会活動、社会を良くするとかいうことを掲げた場合でも、人そのものっていうものに
焦点を当てないと

いくら社会をよくしようとか、よい社会活動して行こうといっても
限界があるんじゃないかということは、
ある程度は、そうだな~と思う人も多いと思うんだけども
でも実際、実際日常を振り返って、自分がよりよく生きていこうとか
社会と言わなくても、いろいろ会社をやったりとか、何かグループ活動、
社会活動をしたりするという時に、
そういう社会と人という、それが、切っても切り離せない
人には社会という要素が不可欠だというような、
そういうところからの日常の発想とか暮らしとか、
そういうものになっているか、どうかというようなことでね。
理論というか、話の上では、そうだよな、
社会○○○、人の幸福は考えられないよな、とか、
社会、会社とか組織やるんでも、人の要素が大きいよな、とか
そういう話題、そのことをそんなに否定する人はいないと思うんだけども
実際、実際日常のとか、暮らしとか社会活動の中で
そういう発想とか、そういう活動になっていってるかどうかが
大きいかなっていう風に思っています。

それで、そういうことを扱う上で問題になってくるなっていうのが、
今日もテーマにしている社会観とか、人間観ということになってくるんだけども、
社会の必要性、人間一人一人の要素が大きいとか
そういうことは言われたり、賛同されたりするかも知れないけども
でもその社会、同じ言葉使って、同じように
「社会」とか「人間」とかいう、文字で書いた言葉は同じだけど
一人一人の中に社会観というか、人間観とか、あると思うんですよね。
「観」っていうのは、社会をどう捉えているか、社会をどう観ているか
人間観って言うんだったら、人間というものをどう捉えているか、
、自分も含めてね、もちろん、
人間というものをどう観ているか、自分は、人間というものをどう捉えているか
そういう人間観、社会観とかいうのは、どっかにあるわけじゃないものね
どっかに人間観がある、社会観があるっていうんでなくて、
一人一人の頭の中にあるわけで、
それも、私はこういう人間観でいこうとか、私はこういう社会観になろうとか、
そう思ってできたものでもないと思うんだよね。
多分、生まれた時っていうのは、そういう人間観も社会観もなかったと思うんだけども、
生まれ育って、周囲にいる、いろんな人、
育って暮らしてきた社会の気風とかそういうものから、いろんなものを受けて
その人その人の中に、その人なりの、社会観とか人間観が
意識するしないに拘わらず、形成されて来ている。
だから、おそらくほとんど、すべての人って言ってもいいと思うけど、
10代20代、・・・、何才ぐらいからか分からないけど、
その年齢に応じてとか、その人に応じての
人間観、社会観っていうもの、あると思うんだよね。

何か、この社会観とか人間観とかいうテーマ、テーマというか、そういう言葉で
自分はどんな人間観か、どんな社会観かとかいって自分に問うてみても、
ぱっと出て来難くて
そんなにはっきり捉えられるものじゃないかも知れないけども、
意識したり自覚したりできないかも知れないけども、
でも、その人間観、社会観っていうのは周囲から小さい頃からずっと受けてるから
かなり、根強いというか、根深いというか、それもしっかりと強く、
一人一人の中にあるんじゃないかなっていう風に思ってます。
どんな人間観か、どんな社会観かというと、それそのものはなかなか言えないけど、
でも、日常暮らしていたら、
そのことは絶対におかしいとか、そんなことはあってはいけないとか、
そんなことしたらあかんだろうとか、そういう、その人から出て来る発想とか感情とか
そういうものも、まあ人間観、社会観だけじゃないだろうけど、
その人の中にある人間観、社会観というのは、すごく大きいんじゃないかと思うんだけど。

頭の、頭の中でというか・・・、
例えば、こういう社会になったらいいなとか、こういうことが出来たらいいなとか、
いうようなこと描いたり、考えたりして、
例えば、例を言うと、人と人は縛り合わない暮らし、縛り合わない社会とか
そういうふうにしたいなというような、そういう発想とか、考えとかは出てきたりとかね、
それに向かって、何か活動しようとか思うけども、そう思うのとはまた別に、
自分の中から、人のやることを何か押さえようとか、止めようとするものが、
事と次第では、にわかに出て来るとか、そういうこと一つとってみても、
頭の中では、縛り合わないということを願ったり、理想としたりしてても
自分の中の人間観ていうのは、どうなっているんだろうっていう、

いろいろ日常の暮らしから、こういうことやりたいな、こういうこと進めたいなとか、
自分自身もこうありたいなとか、こうなりたいなとか
思って活動したり、いろんなこと考えたりするんだけども。

自分の中にある人間観、人というものをどう観てるのかな、どう捉えてるのかな
それは自分に対しても一緒だね、自分ていう、人間っていう、
人というのをどう捉えているのかな、どう観てるのかなって
そこは、何て言うんだろうね、自覚っていうこと、なのか知らないけど
そちらに目を向ける機会というか、何か、そこはどんな風になっているんだろうという、
そういう目を向けて調べないと、あまり自分の人間観は、どうなってるかっていうこと
知らないでというか、いろいろ考えたり、行動したりしている。
でも考えたり、行動したりしているのは、頭で考えたことを
考えたり行動したりしているけども、
実際の現れというのは、かなり、その深いところで自分のベースになってる人間観、
そこからのものから、いろいろと反応とか、出て来る。
その、考えたり、いろんな理想を描いたりすることも、その人の人間観から
出てるものも、あるだろうしね

今の自分の中に、自分だけじゃない、一人一人の中に、どういう人間観があるか、
そこは、けっこう大事なところ、重要な。
日常の暮らしとか、活動の中では、その一人一人の中にある人間観が
現れているんだろうなぁ。
それプラス、実際に考えたり、描いたり、活動があるんだろうなと思うんだけども。
で、その人間観っていうのは何かって言ったら、自分でそうしようと思って
出来たもんじゃない。
生まれてからずっと周囲から受けたものによって、こう、自分の中に形成、
知らず知らずのうちに形成されている。
まあ、そういうものじゃないか。
で、その受けて、周囲から受けて出来た人間観を元に、毎日暮らしている、活動してる。
それが、生きているベースになってるんじゃないかなぁ。

あの、最初に言った、人間がより良く生きていくには、社会という要素が不可欠だな、とか
また、より良い社会にしていくには、人間という、人間そのものを、
人とはどういうものかっていうものを、
そこに焦点を当てないと、社会そのものも観えて来ないなっていうことが
あると思うんだけども、
人として、より良く生きて行こう、社会としても、より良い社会にして行こう
そうして行く、元って言うか、ベースに、それを考える、考えるとか行動するとか
人間というものをどう捉えているのかな、どう観てるのかな、
けっこう、そこが、そこが一番肝心になってくると思って、
人の幸福、社会の幸福っていうことで、言ったり描いたりするけども、
その○○に、自分はどんな人間観があるんだろう、っていう、

繰り返し、繰り返し、そうだよな~、と思いながらも
日常はあまり、そういうことに焦点が当たらないで、過ぎてゆきやすいのかなとか、
で、一人一人の、自分の中に、こう周囲から受けて、知らず知らずのうちに培われた
人間観っていうもの、それは周囲にある、人とはこういうものじゃないか、社会とはこういうものじゃないかという、自分の生まれ育った環境にある、人間観、社会観の影響を
大きく受けてると思うね。それはそういうもので形成されていると。
で、そういうものはそういうものとして、そういう見方、捉え方が自分の中にあるんだけども、
じゃ実際に、人間とはどういうものなのか、社会とはどういうものなのか
今、自分の中にあるのは周囲から受けたものだからね、受けたものはそのまま、
違ってるかとか正しいかということじゃなくて、受けたものは周囲から受けたものであって、
受けたもので考え行動しているというのが、ほとんどの人の日常だと思うんだけども、
その、自分の中にある人間観とか、社会観とかいうことに焦点が当たり始めると、
実際、人間ってどういうもの、そういうものなんだろうかとか、
自分の中では、人間ってこうなっているけども、実際、人間ってそういうものなのか、とか
社会というものをこんな風に見ているけども、社会ってそういうものなのかとか、
人間とはどういうものなのかな、社会とはどういうものなのかな、という、
そっち、そっちの方向性っていうか、そっちを科学する、研鑚するっていう
それが出て来るっていうのも、何かやっぱり自分の中にある、
人間とはどういうもの、自分はどう捉えているか、
自分は社会というものを、どう捉えているかということに、焦点が当たって来ると
自然と、元々、人間とはどういうものなのか、社会とはどういうものなのかっていう
そういう方向性も出て来るような気がして、
ただ、そういうもの無しにやみくもに、本来の人間とは、本来の社会とは、
本当の社会とは、と言って掲げてみても、
やっぱり自分の人間観からそういうことを論ずるわけで、
自分の社会観から、これが本当だとか、いやあれは違うとか、もっとこうなったらいいとか、
そこ、そこから、なかなか脱しにくいなっていうことで、そんな感じがして
まず、自分の中にある、人間とはどういうものか、社会とはどういうものかっていう、
どう捉えているかっていうことが、それの自覚に伴ってというか、
じゃあ、本当に人間って、どういうものなのか、
本当に社会っていうの、どういうものを社会っていうのか、とか
そういう研鑚が始まる、そんな気がしてるんですけどね。

人間とか、社会とか、まあ、人間っていうことにしてみても
あまり僕は難しく、難しく考えたくないと言うか
人間も動物だからね、この地球上にずっと、どういう経過か知らないけど、
あって、地球上に住んでる動物の一種だから、
そう、他の動物と違いがあるわけでもないよね。
空気吸って生きてるし、水や太陽なかったら生きていけないし、
いろんな食べ物もね、食べて、それを入手して、
で、まあ、子孫遺して、ずっと人類っていうの繋がって、続いているんだろうなと思うんだけど
他の動物と、よく言われるけど、他の動物とは何が違うのかって言ったら
他の動物よりも脳の働きが違うのかな、とか
いろんなものを作り出せる、いろんなものを作り出せるっていうのも脳の働きなのかね、
手先が器用とか言っても、手先が器用っていうのも、脳の働きなのかな
それでちょっと、人間の・・・、動物の・・・、動物の中の人間の
いや、でも、動物の中の人間って言ったらまあ、そうだって言うけど、
今の人間社会というか、人間の生活って言うと
随分、人間を特別視している感じもするんだよね、なんか人間・・・。
まあ、ちょっと、その話題は後に回すけど。
あの、脳って、脳、他の動物よりも、脳が進んでいるのか、優れているのか、
発達しているのか、そういうのは確かに言えるのかなと思うんですけど
ええと、まあ一つ、今日、僕が○○上げたいと思っているのは、人間に限らず、
他の動物も記憶能力ってあるやんね、記憶能力って言うか学習能力、
やっぱり何か体験して、記憶して、その記憶を元に行動するよね。
鶏とか豚とかでも、毎日、同じ時間に、だいたい一定時間に餌やってたりすると、
だいたい、その時間になんか、餌をもらえると思うのかね。
反応したりとか、例えば、いつも餌やってる人が近づいて来たりすると、
何か、餌をもらえると思ったりするのか、そんなような反応するとか、
人間だけじゃない、ある程度こう、そういう動物の多くは、いろんなこと体験して、
記憶して、その記憶を活用して日々暮らしているっていう
その面に関しては、他の動物も人間も、すごく共通した面があると思うんだけど
人間について思うのは、体験して記憶して、その体験や記憶を使って
日々活動するということは、そうなんだけども、
その中で、言葉で言うと、決め付けるとか、決め付けるということになるのかな、
当然だとするとか、
例えば、毎日同じ時間に餌が来るとしたら、昨日もきた、今日もきた、という風になると、
次の日も、来るのが当然だ、とか。
例えば、作物が種を蒔いて、雨が降ったり、水をやったりしたら、芽が出て、成長する
という風なこと、あると思うんだけど
多分、ああいう農耕技術なんかも、そういう体験でずっと進んで来てるんだろうね。
種蒔いたら、出て来たと、育ったと、種蒔いたら出て来るかと思ったら、
雨が降らなかったら、枯れてしまったとか、
そういうの見て、雨が降らなくても、水をやったら出て来たとか、育ったとか、
そうしたら、水をやる、雨じゃなくても、水をやると出てくると、
そんなのは、数限りなくあると思うんだけど
例えば、水をやった、作物が成長した、そういう体験とか、体験が記憶となって
また次、それを活用するっていうのはあるよね。
これは、すごく自然な感じがするよね。
さっきの・・・、活用するって、言い方はしないかな
記憶を・・・、
動物でも、ある程度、道を覚えたりとか、家を覚えたりとか、飼い主の顔を覚えたりとか
いろんなこと、あるように・・・、
ここで言いたいのは、さっきの作物の例で言うと、
水をやった、それから作物が育った、そういう事に対して、その体験、記憶
それを活用するっていうだけじゃなくて、
人の場合は、他の動物よりも知能がある、からか、どうか知らないけども
水をやることで作物が育つんだ、とするの、あるのかなと思って
とか、例えば、水をやったから、作物が育ったんだ、という風にする頭。
多分、他の動物は、そういうことしないような気がするんだよね。
その体験、記憶、前こういうことがあった、ということで、
それを活用するっていうのは、あると思うんだけども。
水をやったから、育つんだ、という、
とか、水をやったから、育ったんだ、と。
そういうことを、そういう捉え方をするというのが、人間にはあるなと思う。
それと、もう一つ、人間にあるなと思うのは、
ずうっと何回も、何回も、水をやって育った、水をやって育った、って、
そういう体験を、経験を、何十回、何百回積んでも、今度は水をやっても
育たないかも知れない。
今まで、育ったからといって、今度、水をやったって育つとは限らないとか、
そういうことも考えられるよね。で、また、
水をやった、作物が育った、という事に関して、水をやったら何で育つんだろうとか、
水をやるという事と、育つという事が、どういう関係があるんだろうと、
そういう頭の働きもできるわけだよね。
これを、僕の中では、前者と後者と分けているんだけど、
さっきみたいな、水をやったから育ったんだ、水をやったら育つんだ、という風にする頭と、
何回体験しても何十回体験しても、次は、水をやったから育つとは限らない。
今までは、水をやったら、育ったけども、育たないかも知れないとか、
それから、水をやったから育ったんだ、水をやったら育つんだと言うのじゃなくて
水をやるということと、育つということの関係は何なんだろうとか、なぜ育つんだろうとか
そういう風に考えられる頭もあると思うんだよね。
頭がどっちの働きをするかっていうのが、大きな違いじゃないかと思って、
水をやったら育つんだ、何回か体験しているうちに、もう、水をやったら育つんだ、
水をやったから育ったんだという風に、頭の中でなるのか、
頭の中では、水をやるという事と、育つという事と、どういう関係があるんだろうとか、
なぜ、こうやったら育つんだろうか、とか、
今まではそうだったけども、今度はひょっとしたら、育たないかも知れないとか、
そういう風に考えられる頭と。
そうできる、それは、その今言った二つは、
勝手な予想だけど、多分、他の動物にはないんじゃないかな。
他の動物は体験、経験を記憶して、それを活用して、繰り返して、
繰り返すと言うか、そういうことをやるんじゃないかな、という。

それで、動物、もう一つ、またちょっと別な例に行くんだけども、
動物が、動物がというか、サーカスなんかで芸しこまれて、するやつあるやんね。
まあ、それもやってる動物のことだから、こっちの勝手な想像なんだけど、
言われたというかなんか、芸をするとさ、飴と鞭って言うけど、飴をもらえて、
失敗する、したりやらなかったりすると、こう鞭でたたかれるというような中で、
やっぱり鞭でたたかれるのは、嫌なのかどうか、飴がもらえる方がいいのかどうか
そういう風にするようになるやんね、鞭でたたかれないようにとか、飴がもらえるようにとか、
ああいうことも、それがこう、その動物の中で体験として、これをやったら、
こうしたら鞭がとんでくるとか、こうしたら飴もらえるとか、いうようなことの、
こう体験とか経験で、そういう動作になって行くのかな、という風にも見えるんだよね
それで、別に動物にとってみたら、分からないよね。
なんで、なんでこれすると鞭でたたかれるんだろうとか、
なんで、これすると飴で、飴がもらえるのか、あまりそんなこと、考えないよね。
なんで、とか、この因果関係は何なんだろうかとか、
あまり、そういうこと考えないんじゃないかと思うんだけども、
要は、これするとたたかれる、これすると飴をもらえる
飴もらえる方をやる、みたいな感じに見えるんだけどね、
そうやって仕込まれるのかなって思うんだけど、
案外、人間の場合も似てて、似ているんじゃないかと思うんだけども、
体験的に、その体験、記憶、それを活用するっていうような動物的なもの、
誰にでもあるんと思うんだけど、ずっと生まれて育ってくる環境の中で
こうしたらこうなったなとか、こういうこと言ったら、こうだったなとか、
これだけやったら、こうだったなとか、そういう体験とか経験とか、
そういう記憶の蓄積って、大きいと思うんだよね。
それを元に暮らしてる、活動してるっていうことが大きいんじゃないかなと思って、
それが、さっきの作物の例に戻るんだけど、○○○で言うと
動物だったらと、言ってしまっていいかどうか、分からないけども、
こうやったら、こういうことがあった、こういうことがあったら、こういうことがあったという、
体験や記憶を元に、人間も暮らしているという面はあると思うんだけども
それだけじゃなくて、人の場合は、こうしたら、こうなるんだ。
こうしたから、こうなるんだ、分かり易いんだね
働いたら、お金をもらえるんだ、とか、お金が無かったら、生活が苦しくなるんだとか
そういう、実際、体験はあるとしてもね。働いて、働いたらお金もらえたという
そういう体験するよね。
そうすると、それは自分の体験だけに留まらなくて、さっきの水と作物の例じゃないけど、
働いたら、お金もらえるんだ、働いたから、お金もらえるんだ、
水をやったから作物が育ったんだと
そういう風に自分の頭の中でしていく、まあ、頭の働きがあると思うんだよね。

で、もう一つは、さっき言った、
水をやることと、作物が育つということは、どういう関係があるのだろう、とか
今まで水をやってたら、作物は育ってたけど、今度は育たないかも知れない、とか
次も100%育つとは、言い切れないんじゃないかとか
そういうことを考える、考え出せる脳もある。
自分の中にある体験、記憶、それを元にして、それを活用して生きていくんだ、
生きていったりとか、いろんな活動していくわけなんだけども、
その一つ一つが自分の中で、こうすることでこうなったとか、
こういう時には、こういうことがあった、とかいう、あると思うんだけども、
それが大きく、僕が言ってるのは、二つの道みたいな感じなんだけど、
どっちも人間ならでは、という感じもするんだけども
人間そのものっていうことに焦点をあてて、人間とはどういうものかな~っていうのを
探っていく中で、その脳の働きというか、
脳の使い方はこう使おう意識して使っているわけじゃないんだろうけど
人の脳の働き方によって、現れ方というか、進み方というのは、
大きく違うんじゃないかなってことで、

ちょっと、ここからずっと、どう考えて、どう行動しているんだろうか、とか、
自分の頭の中では、そのことをどう捉えているんだろうかとか
引き続き、発展させて、ずっと調べていかれたらいいなと思っています。
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自立した社会人①

パンフレットに以下のような文章がある。
「アズワンコミュニティは、取り締まりや罰則の要らない社会を目指しています。
そして、ひとりひとりの任意の自発的自由意志で活動するコミュニティでありたいと考えています。
取り決めや指し図されての行動ではなく、ひとりひとりが自分自身を見つめ、調べ、考えて行動する、自立した社会人になることを最も大切にしています。」

ライフミーティングや、研修生コースを通して、自覚がないということは、自立した社会人になれない、ということが見えてきた感じがしている。
自覚がないということは、自発的になり得ず、外発的であり、すぐに何かのせいにしたり、見返りを求めたり、人を責めたり・・・という展開に結びつき、そのような人達の集まりの中では、規則や決め事が必要になって・・と、自分達が願う社会に至らない方向に進んでいくようだ。

例えば、
Bさん:「今から買い物に行って来るから、その後来るね」
Aさん:「Bさんが後で来るって言ってたから、待っているんだ」
が、結局、Bさんは来ない。
Aさんは、「待たされた」、「せっかっく、待っていたのに」と不平を洩らす。
という場合、
Aさんは、Bさんが来ると言ったから待っている、というような他発的意識。
自分が聞いて、Bさんはきっと来るだろうと自分で推察している自覚がない。そこがないから、自分の意思・考えで、「待とう」としているという主体的な意思が捉えられない。
実際には、自分が選択しているのだろうが、選択している自覚がない。Bさんに待たされている、というような他動的な、縛られているような意識状態。

○○だから、××している。
というように、他に原因があって、それで動いているかのような意識構造が、さも当たり前のようになっている人が多いようだ。
ここが自覚出来ないと、他に縛られ、他に動かされているような人、つまりは、人のせいにするような人ばかりが構成する社会が現れてしまうのだろう。

つづく。
自立した社会人 | - | -

主体と自立

人 間 観 | - | -