社会構成の基本  メモ

社会を構成するに当たり、基本となる考え方如何により、どのような社会が出来てくるかが決まってくるのだろう。

現代社会は、日本をはじめ多くの国が法治国家と呼ばれ、法治主義という考え方を基本に国づくりをしているようだ。

法治主義を辞書(大辞林)で調べてみると、
(1)法に従って権力を行使するという政治原理。絶対主義における王の全能的支配を否定して成立した。法の支配。
(2)人の本性を悪とし、徳治主義に反対して、厳格な法によって人民を統治する主義。中国の法家(ほうか)やホッブズなどの立場。

法治国会ではない国は、独裁主義とか、ならず者国家などと呼ばれ、非難されたりしているようである。

法治主義は、話し合いの出来ない、自分一人で幅ろうとする人用の社会の考え方とも言えようか。
話し合いが出来ないから、一人幅ろうとする人がいるから、法(人間が決めたもの)を絶対として、それに従うことで、秩序を保とうとするの。
こういう社会では、話し合いとは、何かを決めるための話し合いとなっていくのだろう。そして決まったことを守る、守らせるということに、多大なるエネルギーを費やし、そういう観念が出来ることで、ますます話し合いの出来ない人を養成するという循環になっていく。
人よりも、法が上になる社会。

このような考え方からすると、人がいて、人間の知能により、絶えず、より良きを目指しつつ、進展・発展しながら進む社会は、まさしく「理想社会」はたまた、夢のような・・・というほど、現代の社会観とはかけ離れているものなのかもしれない。

このような社会構成の元には、
愛と理知に立脚
人間愛の基調の上に組み建てねばならない
という人間観・社会観がある。

そこに至るには、
幅る辱しさに気付いて、他に譲り度くなる、独占に耐えられない人間になり合うことが必須条件となる。
→話し合いの出来る人、ひとと共に繁栄しようとする人に、一人一人がなっていく精神革命が必要。
一人一人がそうなっていこうとすることと、社会としてそうなっていき易い環境・仕組みなどを整備していくことに重点を置いていく。

考え方の革命→人間観・人生観・社会観の革命→人格の養成・涵養

先ずは、法で縛らぬ人になり合わない限り、本当の社会づくりは始まらない。
自分の自由は認め、求めるが、他の行為・言動・思想・考えなどを認めない、許せない、縛ろうとする精神面の解決が必要。
= 自覚のある人への革命から。
= 研鑽能力を身につけるところから。
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「話し合い」の実現④

自分の感覚であるという自覚があるかどうか・・・、話し合いになるかどうかのポイントだろうが、そこの理解・体得が、どのように深まっていくか、話し合いの実現に大きく関わってくるようだ。

仕事の最中にAさんが、Bさんを見て、Bさんがボーっとしているように見えた。つまり、「何もしていない」と見えた。Aさんの頭の中では、いろいろやることがあって、Bさんにそれをやってもらいたいというのが実際の気持ちなのだが、「ボーっとしているBさん」と見えてしまっているので、何だか言いにくく、声がかけれない。
仮に、こういう状態で声をかけるとすると、強い気持ち(責める?求める?)で出るので、言葉に棘があるような感じになるようだ。
AさんのBさんに対する観方や、「自分だったらこういう時にはこうする」というような観方があって、そのような反応が起るのだろうが、そこが観察・自覚できないと、その見え方から解放されない。
逆に、実際の状態としては、そう見えているわけだから、そこを言葉にして発する方が、より、自分の状態が現れ、見えやすい、観察しやすいのかもしれない。自分の中で「自分が思っていること」として、抑えてしまっているようでは、なかなか自分の実際が観えてこないのかもしれない。

他の例から・・・
事務所の掃除をしたばかりの所に、畑に行って汚れた長靴で入ってくるAさん。それを見て、「エー」とか、「まったく」という観方をするところは「自分の感覚」として捉えようとするBさん。「自分の感覚なんだな・・・」と。
が、それだけなのだろうか?
そういった日常の些事の中にも、こうしていきたいという願いは各自にあるだろう。より良く、より正常にしていくには、ということでは、どうなるのだろう?
何のために自覚しようとしているのか?
自分の感覚として自覚するということは、「普通はこうだ」「こうするものだ」という絶対的な位置にいる自分(自分の意識という感覚すらない状態)から抜け出して、自分の感覚として、「思っている」、「考えている」という、一個人の位置に立ち還り、「私の考え」として、意見を言える状態になって、大いに自分の意見は発言し、また、相手の意見も、一人の感覚・個人として尊重して聴いて、どちらも同じ位置で話し合っていくためなのではないだろうか。
自覚がない状態では、自分が「こうだ」としている結論に持っていくための話し(説得?押し付け?)にしかならないから、「話し合い」は決して実現しない。
自覚があってこそ、自分の意見も、相手の意見も出し合って、そこからどんな展開になるか、その場で共に見出していこうとするような状態になれるのだろう。

自覚することで、頭も心ももっと伸びやかに、軟らかく、素直な状態になって、大いに自分の意見も発言し、大いに周りの意見を聴き、実際はどうなのか、どれがよかろうか、本当はどうんだんだろう・・・と発展・進歩・進展していくような「話し合い」が実現していくのだろう。
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「話し合い」の実現③

「話し合い」の実現というテーマで、色んな実例を検討してみると、「自己が混じると話し合いにならない」ということが浮かび上がってきた。

例えば、料理を作ったAさん。
Bさんが、「この料理、もう一つだね」と言った場合、Aさんはどんな風に聴くことが、話し合いになっていくことになるのだろうか。
自覚ない場合、「えー、これはレシピに書いてある通りに作ったのよ」とるのかもしれない。
もっと「自分」がくっついている場合は、「料理を作った私がダメ」「私がもう一つ」と言われているように受け取る場合もあるだろう。「もう、二度と料理なんか作らないから!」なんて発展してしまう場合もあるかもしれない。
反発する場合は、「あなたなんか味が分からいくせに!」と相手に矛先が向く場合もあるかもしれない。

Bさんは、料理についての感想を述べている。
Aさんは、Bさんの言わんとするところを聴こうとするのが、話し合いにつながる聴き方であろう。
それを、料理そのもののこと聞くところが一つの間違い。
それにプラスして、「自分が作った料理」という捉え方から、「そうか」と聴けないようになってしまうようだ。
料理を作っていない人にとっては、「ふーん」とか、「そうか」という感じなのだろうが、料理を作った人は、自分とくっついている分、過剰に反応するのかもしれない。
これは聴き方というところでも、どのように聴くことなのかというところも解明する必要があるだろうし、料理そのものに対しての、「自分が(作った)」という捉え方自体にも、光を当てる必要があるのかもしれない。

別の例。
A:木曜に来たメールを見て、ずいぶん○○だと思った。
B:木曜日じゃないよ、金曜日だよ。
(Bさんが、仕事でそのメールを送った)

Bさん以外の人にとっては、メールが木曜か金曜日かということよりも、Aさんの「ずいぶん○○だと思った」ということが、Aさんの言わんとするところかな・・・と聴いていたが、Bさんは、「え、木曜じゃないよ。うーん(記憶をたどる)、確かに金曜日だ」と、Aさんが何を言わんとするかを聴くというよりも、メールを出したのが木曜か金曜だったかというところに関心が行ってしまって、それが言いたくなる(訂正したくなる)状態だったようだ。

自分が出した、自分が作った、自分が関わった・・・そういう事になると、相手の人が言わんとするところを聴くところにスッといかず、自分のしたことは○○だ、自分はこういうつもりでした、自分は○○だ、自分は・・・、と、自分・自分のオンパレード状態に陥りがちだ。
どうして、こう「自分」「自分」と入るのだろうか?

「自分」そのものを知らない、「自分」が大きい状態、実際に関心が向かない、向きにくい状態にあるということなのだろうか?

「自分が」という”我”が入り込むと、「話し合い」の実現の妨げになるということは、段々に明確になってきた。
そこを先ずは自覚できること。
そこから、その原因は・・・、取り除くには・・・と進んでいけるのだと思う。
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