「自分を知る」とは

人 間 観 | - | -

「話し合い」の実現②

「話し合い」の実現を意識して、色んな研鑚会での実例を検討してみると、話し合いにならない要素のいくつかの点が、より明確になってきた。

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「いや」と、相手を否定する場合は、そこを意識し始めると、話を聴けていない実態が明らかになってくる。
が、「うん」と肯定的に反応している場合でも、その内容をよく見てみないと、否定につながる中身であるのかもしれない。
ある人の例。
A:このお饅頭おいしいね。
B:うん、おいしいね。

何気ない会話なのだが、Bさんは、自分は何に反応したのだろうか?と研鑚会に出していた。それをみんなで検討してみると・・・。
Bさんは、自分が食べてみての感想のつもりで出しているようだが、どうも感想というよりも、饅頭そのものの味がおいしいとなっているようだ。そして、Aさんの「おいしいね」の聞き方も、Aさんの食べてみての感想ではなく、饅頭そのもの味の話になっている。
たまたま、自分の感覚に近い(同じ)と判断しているから、「うん」という反応になっているが、自分の感覚と違うと判断したら、「いや」となるのだろう。

Aさんの感想・感覚・考えを聴くということなら、自分の考えと同じか違うかという判断する前に、Aさんの言うことを聴こうとなるのだろう。
Aさんの発言に対しては、「そうか」「はい」ということになるのだろう。
そして、自分の感覚・考え等は、こうだよ・・・となるのだろう。

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誰かの発言を、「そうなんだ」と、その人の言ってることを、素直に聴いているようだが、その人の発言の中身をそういう事実があるんだ(あったんだ)と、キメつけた状態で聞いている場合も多々あるようだ。
そういう状態だと、他の人の発言で右往左往したり、報道などに踊らされることにつながっていってしまうのだろう。
その人は、その事に対する、その人の見解・感想などを話している。それを自分が聴く訳だから、「そうか」と、その人の言わんとするところを聴こうとすることは出来るわけだが、その事自体は、その人の思うところ・発言とは別のこと。それなのに、その事が分かった、知ったように捉えてしまうところに間違いが生ずるようだ。
やはり、どこまで、自分が聴いた、受け取ったということでしかないわけだが・・・。

A:Bさん、Cさんに○○と言ったの?
B:いや、そんなこと俺は言っていないよ。

「○○と言ったのか?」という問いを素直に聴いて、自分は言ったかどうかと考えて返事しているのとは違う状態のようだ。
Bさんは、Aさんの発言を聞いているだけなのに、「Cさんが、Bさんが○○と言っているんだ」と判断して、そのことについて、「俺はそんなこと言っていない」(それは事実と違う)と反応しているようだ。
Aさんが受け取った、Cさんの発言なのだろうが、Cさんがそうだ(Cさんの実際が分かる)と聞いて判断してしまうところからの混線なのだろう。

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Aさんからのメール「銘柄は何でもいいから発泡酒を買ってきて」
B:発泡酒買って来たよ。
A:ビールを注文したと思うが。
B:あれ、自分が間違えたかな?(メールを確認して)発泡酒というメールだったよ。(あなたが間違っている)

何気ないやり取りだが、どこか噛み合わない。
「ビールを注文したと思う」に対して、「そうか」というところが抜けて、自分が間違えたかな?というところ(どちらが間違えたかという方)に話が展開していっているようだ。

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「話し合い」の実現には、
自分の思うこと、考えることは、すべて、そのもの自体ではなく、自分なりに捉えたものであるという自覚、そこから、相手も、その事自体ではなく、その人の捉えた感覚・考えがあり、それを言葉で表現している、そういう成り立ちを知的に理解して、得心がいくところまでいく必要がありそうだ。
そして、聴く時は、その人の思うところを聴く。そして、その後に自分の考えを・・・というところを体得していくための練習が要るようだ。
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「話し合い」の実現

「話し合い」ということは(二人で話す場合だったら)、「相手が思ったことを話し、それを自分が聴いて、また、自分が思ったことを話し、それを相手が聴いて・・・・」ということが実現することだろう。
「話し合い」を広辞苑で見ても、
① 互いに話す。
② 相談する。
とあるだけだ。
実に簡単、シンプルなことのようだ。
だが、実は、これがなかなか実現しくいのが実態のようだ。

A:「今日は涼しいね」
B:「いや、暑いよ」
A: こう言われると、何かヒヤッと冷たいものが流れるんだよね。

こういう例を、ライフミーティングで、ある人が出していた。
このような日常の何気ない会話の中に、話し合いにならない要素が見出される。人の話が聴けないところからくる、人と人との隔たりの実態が見えてくるようだ。

Bの人は、「自分は思ったことを言っただけだ」という意識なのかもしれない。
がしかし、よくその中身を見てみると、自分の思うことを言う前に、「いや」と相手の言うことを、否定・拒否している状態が見えてくる。
否定する時、相手と自分は別の世界。二つの世界が出来てしまうのだろう。

そこを自覚出来ずに、日常茶飯事、口癖の様に、
「いや」
「そうだけど」
「そうじゃなくて」
「それはそうだけど」等等、
相手の発言を否定、認めない状態になっている場合が、多々あるようだ。

その人は、何かについて、その人の感覚や考え等があって、それを言葉で表現している。
それを自分は自分の受け取り方で聴いている。
そこには、「そうか」「ハイ」としか反応しようのないというのが本来の姿なのだろう。そこを受け止めた上で(聴いた上で)、自分の意見・考えを言うのが、話し合いの姿なのだろう。
そこが理解でき、実践できたら、話し合うということが実現されるのだろう。
が、自分の考え・物差しで、相手の発言を裁く、判断する回路が根強くあって、殆ど自覚もなく、「いや」と即座に反応してしまうのであろう。

こう考えてくると、「いや」とかでもなくて、「うん」とか「そうだ」と肯定的に受け取っている場合でも、自分の考えに合うという中身で、同調、受け入れている場合もあるかもしれない。(これも裁いている、判断しているというのでは同次元なのだろう)
自分の考えを入れないで、相手の言うことを、聴くという状態が、先ずは実現される必要があることが見えてくる。


相手の発言を「訂正したくなる」ということも、ライフミーティングで出ていた。

昨日、一緒にカツ丼を食べに行ったAさんとBさん。
A:「昨日牛丼食べたね」
B:「いや、カツ丼だったでしょ」

Aさんは、何か思って(思い違いかもしれないが)、ともかく、「牛丼を食べた」と思ったことを言っているのだが、Bさんは、自分の記憶を正しいとして、Aさんの発言を否定して、「カツ丼」と訂正しようとする。時には、「何を言っているんだ」と責める気持ちが湧いてくる場合さえある。
Aさんの発言には、「そうか」と受け止め、その上で、自分は「カツ丼だったと思う」となることで、話し合いが実現されていくのだろう。
自分が思ってるという自覚がないと、そのようには出来ないだろう。自分が正しいという状態では、即座に「いや、違う!」と判断を下すのだろう。

話し合うとは、どういうことか。
相手が思うことを言葉で表現するとはどういうことなのか。
自分が、相手の話を聴くとはどういうことなのか。
自分が思ったことを言うとはどういうことなのか。

この辺を、ハッキリと検べて見極め、自分の実態を観察し、間違いを見出し、取り除き、本当の話し合いが実現できるように進んでいきたいものだ。
話し合いの実現のためにも。

そのためにも、まずは、自覚のある人になるところから、となるようだ・・・。
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