自覚のない自分を自覚する

人間にとって最も必要な自覚の始まり。

この世に、嬉しい出来事とか、悲しい事とか、感動するような光景・作品・行為なんていうものは存在しない。つまり、美しい景色とか、美味しい食べ物とか・・・。
感情は、人や物事に対する反応ではなく、自分なりに認識し捉えたものと自らの内にあるものとの自己反応だと思う。それを、物事に対して反応しているのだと捉えがち。

自らの内なる自己反応。思考も言動も自らの内なる自己反応。意識を伴わない日常生活行動など、食べることも、歩くことも、話すことも、働くことも、・・・。

そういう自覚のある人と、自覚のない人との違い
例えば、事故が起きた、値上がりした、あの人がこう言った 等々、捉えた自分の中で、どうなっているか(自己反応)。事実かどうかでなく、事実は事実でいいんだけど。

飲食する、衣服を着替える、トイレに行く、人に声をかける 等の生活行動を 自然な行為だとか、自分に合った無理のないパターンだとか、或いは人や物事に対して反応しているんだと思いがちだが、ジツは、実は、その人の持っているものが、ハッキリ現われているのだから・・・。自覚がないだけかなーー。
共に暮らしたり、話したりする中で、そういう自覚のある人と、自覚のない人との違いは大きい。
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私は、なぜ? という問い。

生涯学究で、「何故?」という問いで調べることがある。
生涯学究での「何故?」は、「私は、なぜ・・・?」という問い。

私は、なぜ・・・? と問うても、
 誰かに返答をしようと、知識・経験など、知ってることを羅列して説明・納得する人や、
 そのことを分析して、理由や原因を突き止めようと、考える人がいる。

私は、なぜ・・・? という問いは、私に尋ねることであって、知っていることで理由を説明したり、原因を考えることではない。
自分に問う(自問する)ことが仲々できない人がいる。すぐに知っていることが出てくる。頭で考えて返答しようとする。 
自分に聞いてみて、自分の中から何が返ってくるか。何も返って来ない場合もある。何を問われているのかさえ分からない場合もある。

自分に尋ねてみて、自分の中から返ってくるもの、それによって自分を知る。
あれやこれやと考える前に、知識や経験で何かを知ったつもりになる前に、先ず自分に聞いて、今の自分を知る。人間にとって最も必要な自覚の始まり。 
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今日から予科課程

今日からの予科課程 今までになく参加者が多いみたい。
どうしたことだろう。今年の始めころは参加者が居なくて、開催休止したことも何回かある。
生涯学究 予科課程・・・・研鑽体得 予科課程 としてやろうとしている。

研鑽体得 やはり、研鑽そのもの、ヤマギシを知って、20年、30年、研鑽と呼んでやってきても、研鑽そのものが、さっぱり!という実情もあると思う。
特講・研学すら体験してない世間の人より、ましか? いや、そう云えるかな?
研鑚には、あまり関心がなくて、「自分がいいと思うこと」をやっている。それが実情かなー・・・・。
「自分がいいと思うこと」をやらなくて、いったい何やるの? それのどこが間違っているの? という実情かなー?
研鑚生活とか、研鑚社会とか、今からホントゼロからのことのように思う。
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私の社会像 5

人は生まれながらにして、自分以外の人によって育てられ、人の中で暮らし、人から得たもので成長する。
空気・日光・水・衣食住用物資・自然動植物・温度湿度などが完全であっても、自分以外の人の要素を欠いては、安心も満足も幸福も語れない。
幼い子どもだと分かり易いが、周囲の人次第で、安心要素にも不安要素にもなる。人に対する不審や猜疑は、天変地異・自然災害よりも深刻で、生涯の不安・心配要素とも云える。
 ・人を受け容れ、人から受け容れられること。
 ・人を退け、人から退けられること。
このことが人の心に及ぼす影響は甚だしく、正反対の心の状態を齎す。
人を退けたり、人から退けられることが一切ない社会はどうだろうか。
人には本来、人を受け容れよう、人に受け容れられたい、とする欲求があるのではないだろうか。しかし、社会通念というものがそれを妨げているのだと思う。規則・道徳・倫理観・常識観が障壁となって、それから外れる人を受け容れない。
また、人はその社会に受け容れられようと努力するが、順応しきれない人は無理が生じ、脱落したり反社会的行動をとる。
これは大人社会のみでなく、幼児の小社会から始まっている。
誰のどんな発言や行為も受け容れる社会はどうだろうか。
悪事や迷惑行為を退けようとするが、元を辿れば、人に退けられ受け容れられないことから来る心の歪みが、そうした行為を誘発しているのだから、それを退けていては、ますます心の歪み不安定は増すばかりで、幼な子の時のように誰からも愛され受け容れられることが、心を満たし、悪行為をなくす近道だと思う。
生まれてから死ぬまで生涯、人を受け容れ、人に受け容れられて、人を愛し、人から愛されて、安心満足してすごす人生はどうだろうか。そういう社会の実現を図りたい。
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私の社会像 4

優勝劣敗とか、金銭財物とか、地位・名誉とか、道徳・信心などに重きをおく価値観から来る満足感や安心感は本当のものではない。
物を豊富にしたり、福祉や教育に力を入れるのも、人々がより良く生きられる社会たらんとする施策だろうが、本当の意味での物心両面の安定・満足を目指すのなら、「人間は何によって本当の満足・安心が得られるか」を見極め知ることが何よりも優先される。
人間にとっての本当の幸福は、心の安定・安心・満足がベースで、これは心の持ち方だけでは如何ともし難く、物や環境の要素も大きい。物が不足しては心にも影響するから物も必要だが、物がいくら有ってもそれで満足できるとは限らない。
いかに物や力を持っても、それだけでは満たされないことを人は本能的に知っているからか、どんな世でも人は心の満悦を求めてはいるが、そのものの見極めが曖昧なために、縛り合い押し付け合ってでも、物や力を持てば満足できると思い、そういう満足感を得ようとしている。或いは、信仰等によって心の安定を図ろうとする。
やはり、人の心は何によって満たされるかを知ることが先決。物を軽視するのでなく物も大事だが物では解決できない心の満悦を知る。人間が一生通して幸福であるというのは、どういう人生かを見極め、それを実現する社会を目指すことが肝要だと思う。 つづく
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