内観する―自分を検べるために

第25回研鑽科学サロン

    一、 自分を検べる
    二、 内観法について
    三、 人生について
    四、 記憶について
    五、 まとめ
         抽象的思考から具体的思考へ
         非実際的思考から実際的思考へ
    六、 補足


一、自分を検べる

○自分を検べるとは
自分を検べるといっても、いわゆる反省をして自分の非を改めるということではなく、
自分の言動や内面(気持感情・思い考え・欲求意志など)がどうなっているかを、善し悪しの判断を入れずに、より客観的に観察して検べるということ。

○自分を検べる道筋
①他人ではなく、自分に焦点を当てて検べる。
②実際にあった(人との)具体的な事や場面で、自分を検べる
実例で実際の自分を検べる。
実際の自分というのは、人との密接な関わりの中にいる自分ではないか―夫婦・親子・同僚・友人とか、おふくろさん弁当で働いている・ライフセンターの会員であるとか、そういう関連の中にいる実際の自分を具体例で検べる。
③検べる方向
 (人との)具体的な事や場面→自分の姿や言動→自分の内面(意識―思い考え・気持感情・欲求意志など)→元の心の状態

○自分を検べるには内観するほかない 
自分の言動までは外からも、他の人に見えたり聞こえたりするが、
自分の内面(意識―思い考え・気持感情・欲求意志など)は私秘的なものだから、自分にしか検べられない。自分の意識や心は内から観るほかない。

○自分が検べたくて、自分を検べること
他人に指示されてするのでなく、本当に自分が検べたくて検べるという自発的なものがなければ、本当の意味で自分を検べるということは成されないのでないか。
(自分に、そして自分を検べることに、本当に興味関心があるかどうか)

○自分を検べることで人を知る
自分のことを観ないで、自分のことを検べないで、人とはどういうものかといくら考えても、それは机上の空論。(特に人の内面のことになると、自分の内面を観て参考にするほかないのでは・・)
自分を検べることで、はじめて人というものを具体的に知ることができる。
内観する(自分を観る)→自分を検べる→自分を知る→人を知る



二、内観法について
① 内観法の由来
② 内観の方法
③ 内観法の体験内容
④ 体験の実例
⑤ 内観するとは

① 内観法の由来
内観法とは、60年程前から故吉本伊信氏によって考案・確立され、現在各地の内観研修所や医療や教育現場等様々な分野で実践されている自己観察法(自己探求法)である。
現在、研鑽ライフセンターでは、この内観法を取り入れて、自分を知るための内観コースが設けられている。

② 内観の方法
内観法は一週間宿泊して研修する集中内観と、日常生活での日常内観があります。
集中内観の方法は次の通りです。
1、法座の中で楽な姿勢で座ります。
2、そして、母(または母親代わりの人)に対する自分を、
① 世話になったこと
② して返したこと
③ 迷惑をかけたことの
3点について、具体的な事を調べます。
3、調べるのは年代順。小学校低学年、高学年、中学校時代・・・というように年令を区切って、現在まで調べます。
4、それがすめば、父、配偶者、子どもなど身近な人に対する自分を同様の観点から調べます。一通り終われば、母に戻ります。
5、1~2時間おきに、3~5分間の面接が、1日7~8回あります。
面接では、3点について、その時間に調べたことを面接者に報告します。
6、内観法には、その他「養育費の計算」や「嘘と盗み」というテーマがあります。
また、「物や道具に対する自分」というテーマで内観することもできます。
   
(註)内観法では、必ずテーマを持って内観する。研鑽ライフセンターの内観コースでは、上下感・劣等感・腹立ち・人の目が気になる等のテーマを持って、内観することもできる。

③ 内観法の体験
内観法は人との関わりに着目している。
自分の心(精神)は、主に人との関わり(人との体験)を通して、形成されているのではないか。内観法では、自分の中の人体験に焦点をあてて検べる
    
具体的な内観体験では、
 1、自分の人生(成長の過程・経歴)を振り返ることで、自分の生い立ち、人としての成り立ちを知る。
 2、自分の心の形成を顧みる。
 3、心の健康正常化、つまり心に抱える悩み(不安・心配・孤独)傷(トラウマ)・歪み(上下感・優越感劣等感・競争心・被害妄想・他人の目が気になる・などなど)の解消。
 4、自分を客観的に観る目を養う。   etc.

④内観体験の実例
内観体験の感想
内観で自分の記憶を掘り起こしていくプロセス
そういう中で自分の過去の事に対する捉え方・思い方が変化していく様子

⑤内観するとは(内観法では)
過去の自分のことを思い出すこと
自分についての記憶を、より詳細に、より鮮明に呼び起こすこと

内観法では、自分のことで過去に実際あった具体的な事を思い出す、つまり自分の過去の記憶を呼び起こすことが、自分の中でのおもな作業となる。
 
例えば、30年前の(10年前の、1年前の、1月前の、昨日の)自分を内観して(できるだけ詳細に鮮明に思い出して)、その時の自分はどうだったかと、自分を検べる。
 
幼少のころから現在に至るまで、つまり記憶をたよりに自分の人生をたどりながら、その時々の自分を内観して、その時の自分はどうだったか、どういう自分であったかを検べる。



三、人生について
人生は、知識や理論(人生論)で組み立てられたものではない。
人生とは、具体的な体験の連続。
人の心にしても、具体的な体験の連続の中で形成されるのではないか。
(註) 体験―直接自分自身が経験すること。またその経験
実際に見聞きしたり、自分でやってみたりすること
自分にとって印象の強い体験(特別な体験)と、そうでない体験がある
例えば、戦争体験、地震体験、交通事故に遭った、交通事故を目撃した、旅行に行った、誰それと徹夜で話をした、研鑽科学サロンに参加した
食べたり寝たり仕事したりの日常生活
家族生活、夫婦生活、寮生活などなど
     
意識上の人生(自分で作った人生のストーリー)
実際の人生(具体的な体験の連続) 

内観法では、実際の人生に焦点を当てて、検べる
実際はどうだったか?実際はどうだったか?実際はどうだったか?・・とあくまでも自分の具体的な体験を検べる
(集中内観において、一週間の間に母に対する自分を、3回検べる人もいる)



四、記憶について

記憶の分類 ①体験的記憶 ②知識的記憶 ③習慣的記憶
(①②③は相互に絡み合っている)

①体験的記憶 実際に体験した事(場面)の記憶
  実際に自分自身が直接見聞きしたり、自分でやってみたりしたことの記憶
  実際的・具体的

②知識的記憶 知識や情報として覚えた記憶
  非実際的・抽象的
  学校や塾の勉強で覚えた知識・理論
  新聞やテレビやインターネットで得た情報
  本を読んだり、研鑽会に参加して得た、考え方・思想の知識

③習慣的記憶 練習や学習をして覚えて身につけたもの
  箸を使える、車の運転ができる、パソコンを操作できる
  英語を話せる、計算ができる
       
(註) 身についたいろいろな考え方(思考方式・思考回路)や観念(人間観・人生観・社会観・結婚観・教育観などなど)もこの習慣的記憶に分類できるのかもしれない
 
記憶をこのように捉えると、記憶は自分の中にあるものだが
すべて周囲環境(人や社会や自然)から、体験を通して、受けたもの。

記憶(受けたもの)で人はできている?
身も心も記憶(受けたもの)の塊?

人の生き方や個性や日々事に処しての認識・言動の異いも、記憶(受けたもの)の異いに拠る。(遺伝子レベルの記憶?も関与)

このように捉えると、
自分を検べるとは、先ず第一に自分の記憶を検べることではないか。

内観の対象は、①の体験的記憶(より実際的で具体的な記憶)
自分の体験的記憶を、幼少のころから現在にいたるまで、できるだけ詳細に、できるだけ鮮明に呼び起こすことを通して、
1.自分の実際の人生に触れ、自分の生い立ちや人としての成り立ちが知れてくる
2.また、心の形成をも垣間観る機会となる
3.自分の心に抱える悩み(不安・心配・孤独)傷(トラウマ)歪み(優越感劣等感・被害妄想・他人の目が気になる・などなど)も、いろいろな知識や考え方を持ってきて整理するのではなく、自分の心の形成を具体的に顧みることで、それらの悩みや傷や歪みに対して、自ずと客観視できるようになり、解決のきっかけとなる。



五、まとめ
    抽象的思考から具体的思考へ
    非実際的思考から実際的思考へ


人は実際の世界(具体的な人や社会・具体的な物や自然)の中にいて、他との関連の中で生きている。そこで、いろいろな体験をする。人生とはそのような体験の連続と言える。また、そのような体験の連続を通して、人は心身ともに成長していく。

自分のことや人のこと、さらには人生のことを、具体的に知るためには、自分の体験を材料にして知るほかにないのではないか。

人間は、自分の体験に拠らない知識的記憶(知識や情報として覚えた記憶・考え方や思想の知識)だけによっても、人や社会や自然について、いろいろ限りなく思考することはできる。

そのような思考を抽象的思考(非実際的思考)と呼んでみる。それに対して自分の具体的な実体験を材料にした思考を具体的思考(実際的思考)と呼んでみる
(註、具体的思考と抽象的思考は、まったく別個になされるわけではなく、両者行きつ戻りつしながら、なされるのが、人の思考の実際ではないか)→図

現状の人は、学校の勉強や読書を通して、知識や情報に基づいた抽象的思考の訓練を随分積み重ねて身につけているのではないかと思う。自分の体験や自分の実際、さらには自分の人生のことを考えるときでも、自分の実際をよく観ないで、自分の体験をよく検べないで、知識や情報を持ち込んで考えたり、捉えようとすることが多いのではないか。そうしている自覚もなく、自分や人や人生の実際を考えているつもりでいる場合も多いのではないか。

自分の生き方にしても、日々人と接する体験によってこそ、形成されてきたのではないか。内観法では、先ず自分の実際の体験に着目する。自分の実際の体験というものが、自分の生き方や自分の人生について考える具体的な材料になる。つまり、自分の生き方や自分の人生について、具体的に実際的に思考することができる。

自分を知るためには、また自分の人生を知るためには、いろいろな考え方や思想を知識として得ようとするのではなく、まずは内観して、自分のことをよく検べることではないか

(註)上に「自分の体験を材料にして知る」とか「自分の具体的な実体験を材料にした思考」という表現をしたが、それは「自分の体験を判断の前提や基準にする」ということではなく、自分の体験を検べる(思考する)材料にするということ、つまり自分の体験をよく検べるということ。
往々にして、自分が体験したから、つまり自分で見たから聞いたから直接やったからと、自分の体験をよく検べないで、自分の体験を基準にして物事を認識したり理解しようとする場合もあるが、ここで言わんとすることは、そういう行き方とはまったく別のものである。



六、補足
○内観法では、実際性・具体性・客観性を重視する
内観法体験において、心に抱える悩みや傷や歪みが解消する方向に向かうことができるのも、このことによるのではないか。
自分自身の悩みも、自分自身と向き合うこと、つまり自分の実際の状態を、具体的に客観的に観て検べようとすることで、悩みが自分から離れていくのではないか・・・

○内観に集中することで、驚くほど記憶が鮮明に蘇ってくることがあるが、それは記憶がより具体的になるということで、なんら神秘的な体験ではない
内観すればするほど具体的になる

○主体的に考えるということの大事さと言われるが、<主体的に考えられる>とは、単に自分の頭で考えられるということではなく、自分の体験や自分や社会の実際に即して(即そうとして)どれだけ具体的に思考することができるかということではないか。
そういう意味で内観法は主体的な思考を養うことにも繋がるのではないか

○自分の今の思い考え、あるいは気持や感情にしても、具体性があるかないか
 自分の思いや考えに酔っての感情や気持か、それとも実際性具体性に触れての気持や感情なのか

○人間の知性は、実際性具体性に触れてこそ、その機能も本来的に、つまり人間の生存や幸福に繋がるように、発揮されるのではないか

○具体的・実際的とか具体性・実際性とかいう言葉を随分使ったが、使い方にも何かあいまいなものがあるとは思う。要は自分がどこに目を向けようとしているか、何をベースに考えようとしているかということだと思う。
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