幸福な人生 快適な社会 5

 以上、私の理想「幸福な人生と快適な社会」について、人・物・社会の3つの要素に分けて述べてきた。繰り返すと、人間的要素「心身の正常健康」、物質的要素「物資の豊満」、社会的要素「自由平等」である。その概要を下記のように箇条書きにまとめてみた。

 ・心身の正常健康
   生まれながらにして健全な心身
   病気なし 病身なし 怒りなし 疑いなし 憎しみなし 苦しみなし
   優越感なし 劣等感なし
   人を裁かない 人に立ち入らない 縛らない押し付けない・・・・自由観の確立
   親愛の情 仲良し 相互協力 人間性 人格形成

 ・物資の豊満
   欲するものが欲しい時に欲しいだけ空気や水のように得られる。
   所有がない 占用がない 禁止や許可がない
   この人は使っていい、この人は使ってはいけない、というものはない
   自由に使用する機会が、全ての人に均等にある。・・・・平等観の確立
   誰のものでもない 誰が用いてもよい

 ・自由 平等
   規則なし 罰則なし 義務なし 責任なし
   言論行動の自由 思考感情欲求の自由
   何を言ってもよい 何をしてもよい 何もしなくてもよい
   何を考え何を欲してもよい
   誰のどんな意思も妨げない 意思通りに行動できる
   全ての人が同格 全ての物事に対して機会均等

 いろいろな角度から、欠点や間違いを指摘して頂き、異論や批判を仰ぎたいと思うものである。
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幸福な人生 快適な社会 4

 もう1つの要素、社会的要素としてあげたいのが、自由平等である。自由平等ということを否定したり、嫌ったりする人は殆どいないと思うが、自由とか、平等とか、言っても、その言葉の意味するところは、人によってずいぶん違いがあるから、私はあえて真の自由平等、あるいは完全な自由平等と言いたい。
 人類史上、ずいぶん古くから自由平等が叫ばれて久しいし、人類の歴史は自由平等を獲得する歴史だという人もいる。しかし、もう少し平易に考えてみると、自由や平等は獲得するようなものでなく、この世は、もちろん人間も含めて、もともと全てが自由平等だと思う。束縛や差別等は人間がいつの間にか作り出したものだと思う。
 今日の社会を見ても、自由を唱えながら、義務だとか責任だとか、押しつけたり、背負ったり、人間同士で不自由にし合っている。義務や責任を守らない自由を認めてしまったら社会が成り立たないとか、社会生活していくには守らなければならないことがあるとか、我慢や辛抱も必要だとか等々、それは自分勝手だ、わがままだ、してはいけないことだ、と互いに言いきかせて束縛し合っている。
自由を唱えながら、自由に暮らしていくには少しぐらいの不自由も必要だ、とその矛盾にも気づかず、本気でそう思いこんでいる人もいる。こんな滑稽な姿は誰でも判りそうなものだが、今の社会では公然とまかり通っている。
平等にしても、いろいろな会社や団体において、すべての人が同格で平等な組織があるだろうか。殆どすべてといっていいほど、どの組織にも人と人、部署と部署の間に上下があり、命令と服従がある。権限の多い人と、少ない人がある。これを指摘すると、組織というものは同列の人ばかりでは成り立たない。上下があってこそ意思統一がなされるとか、組織が成り立つのだという人もいる。
 しかし、これは、平等では社会が成り立たないと言っているようなものであり、平等を否定しているとも言えるのではないだろうか。
 以上述べたように、今日の社会では自由平等を尊重をしているとはいえども、その実際は非常に中途半端で、未熟不完全なものだと思う。もっというと、自由平等と言いながら、規制束縛と上下の命令服従で営まれている社会であるともいえよう。
 平等というと、だれもが同じような形にすることだと思いがちであるが、例えば大人と子供ではそれぞれに適した生き方があり、学校の先生と生徒、会社の経営者と現場担当者など、それぞれ違いがあって当然だし、同じようなことをするのが平等ではなく、一人一人に持ち味や役割の違いがあって、すべての人に上下がなく、皆同格ということだと思う。
先生が決めたことを生徒は守るべきだとか、経営者の指示には現場担当者は従うのが当然だというのではなく、上下のない同格ならば、果たしてどんな学校や会社になっていくだろう。
 人間には一人一人皆違う個性があり、肉体的にも精神的にもそれぞれの持ち味や能力があり、思想感情欲求など、みな違うし、この人は尊重したらいい、この人は尊重しなくていい、ということはない筈である。そうすると、真の平等とは、すべての人を尊重することだとも言えると思う。人を尊重するということには反対する人は少ないと思うが、実際の日常生活では、そんな考え方は許せないとか、そんなことを要求するのは許せないとか、その人そのものを認めようとしない例も随分あると思う。
 平等とはすべての人の思想感情欲求などを尊重し、また物質的要素でも述べたが、あらゆる物資を自由に使う機会が誰にでもあるということで、何かの決め事や、ある価値観で、その人の個性から出たものを抑圧するのは平等ではないから、束縛や押し付けのない状態、即ち自由な社会であってこそ、平等な社会も実現する。
 社会的要素について述べてきたが、機構制度を設け、それを運用するのは人間だから、人間の意識や考え方や心の状態によって、社会そのものが決まるといっても過言でないと思う。つまり、人間的要素で述べたように、上下感・優越感・劣等感などを解決することが、社会の自由平等を実現するには必要だということが、分って頂けると思う。
 ただ、物質的要素で掲げたように、だれもが欲しいものを欲しいだけ手に入れることができて、監視や束縛や抑圧がないに越したことはないが、果たしてそんなことで社会が成り立つものだろうか。皆が自由に好き放題のことをしたら混乱するに決まっていると、言う人も多いだろう。
 でも、そう思うのは監視や束縛や抑圧のいる今の社会を前提にして、想像するからではないだろうか。或いは今まで過去に、監視も束縛も抑圧もない社会を見たことがないから、そんな社会は無理に決まっているという諦め的な決めつけがあるのではないだろうか。
 ここに、人間というものをどう見るかという、人間観が重要になってくる。
 良識のあるまじめな人ばかりなら皆が自由にして暮らしてやっていけるだろうが、世の中はそんな良い人ばかりじゃない、悪いことをする人もいるから、うまくいく筈がないという人がいる。そこで、じゃあ、良い人とか、悪いことをする人はどうやってできるのか。その人が生まれてから育ってきた社会環境や周囲の人たちの影響が大きいのではないだろうか。
 悪いことをする人がいるから社会が悪くなったのか、社会が悪いから悪いことをする人ができたのか、どちらともいえないが、人間は悪いことをするものだとは言い切れないと思う。少なくとも、悪いことをしたくてしている人はいないと思う。悪いことをする必要がなくなれば悪いことをする人はなくなると思う。
 どうすればそうなるか、どうすればそういう社会になるか、それが本書の本題である。
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幸福な人生 快適な社会 3

 次に、物質的要素を一言でいうと、物資の豊満である。これはいろいろな物が、大量に生産されて豊富に存在する、という意味もあるが、それだけではない。誰もが必要なだけ或いは欲しいだけ自由に使えることが理想だと思う。
空気や水のごとく、という言葉があるが、あらゆる物資が誰の許可も不要で、お金を払う必要もなく、空気のように自由に使える、というのは夢物語だろうか。非現実的だろうか。そういう世の中になれば、さぞ愉快だろうな、と私は思うが、本当に実現できないものかと考えてみたい。
 例えば、今日の先進諸国といわれる地域をみると、物はあり余るほど生産されている。しかし、世界中を見ると、物質的に貧しい国もたくさんある。また、同じ社会の中でも、貧富の差というものがある。
今の日本のように、物余り時代と言われる社会でも、満ち足りた豊かさを得ている人はどれほどいることだろう。物はいくら豊富にあっても、足りない思いや、満たされない気持ちは解消されない。
 貨幣経済の社会においては、物に乏しくて、物を必要としていても、お金がないと物を手に入れることができない。また逆に、お金さえあれば、必要でない物もいくらでも手に入れることができる。
 今の社会では、このようなことは当然とされているが、この貨幣経済の社会をこのままにしておいても、貧富の差はなくならないだろうし、豊満な社会にならないと思う。
 物資の豊満を実現するには、先に述べた人間的要素や後に述べる社会的要素も、必要になってくる。
 人と社会の問題になってくると思うが、例えば、働きの多い人も少ない人も、能力の高い人も低い人も、欲しい物が好きなだけ自由に使えるというと、そんなことは許せないと思う人もあるだろう。そんなことは不公平だという人もあるだろう。人は一人一人、持ち味や能力が違うのに、能力の高い人や力のある人が自由に使用できて、そうでない人はあきらめて辛抱することが、今の社会では当然とされている。これではとても動物的な社会だと思う。
 自然界の動物の世界でも、物が豊富にあれば、生存競争もなく穏やかに暮らせるのだろう。人類はかつて、物が少なく生存にもこと欠くような時代を体験したのだろうか。それ以来、生存競争が生まれたり、力の強いものが欲しい物を手に入れる、ということになったのだろうか。
 しかし、人間は自然界にあるものを採取するだけでなく、いろいろな物に作り変えたり、大量に再生産したりできるのだから、今の世の中のように、それぞれが力に応じて物を手に入れて、それぞれの囲いの中に蓄えたり、他から取られないように警戒したりしなくとも、人間全部が十分に使えるだけの物を生産し、自由に使えるようにすることの方が、よほど楽だと思うし、今の世の中のような苦労が要らないと思う。それぐらいの物量を生産し、世界中に流通さすことぐらいは、人間なら十分できる筈である。
 私が知っているだけでも、この数十年間の物質的進歩はすさまじいものがある。生産性の向上やそれによる物の増産、技術革新による機械や道具の開発やそれによる生活様式の変化などなど、これから先、人間は何を作り出し、どんな暮らしになっていくのか、予想だにできない。このような人間の能力を、もっともっと世界人類全体が豊かに暮らせるようにとの方向で力を合わせて励めば、ここに述べた物資の豊満は難しいことではないと思う。
 職業を持つ一人一人は、1日の大半を仕事に費やしているのだから、その目標、方向性を人類全体の豊かさに焦点をおくことだと思う。これは、その気になれば誰からでも、今すぐにでも、始められることである。
 日光や空気は、分け隔てなく誰もが得られる。能力の低い人も、働きの少ない人も、自由に好きなだけ得られる。あらゆる物資を日光や空気のように、というと、今の世の中では、考えにくいかもしれないが、人間の知恵と力によって、あらゆる物資を豊富に生産し、日光や空気のようにすることも可能だと思う。そうなれば、これは俺のものだとか、勝手に使ってはいけないとか、いちいち言う人はなくなると思う。
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幸福な人生 快適な社会 2

 人間的要素でいうと、人間は心身ともに正常健康でありたいと思う。人は生まれた時は心身ともに健全である。時には肉体や知能に障害を持って生まれる人もあるが、こういうことは近い将来、なくすることができるだろう。少なくとも心の面、精神面が生まれたときから不健全という人はいない筈である。
生まれてから死ぬまで、心身ともに健全な状態で、人生を全うするのが、理想だと思う。
 病気なし、病身なし、怒りなし、疑いなし、憎しみなし、苦しみなし、優越感なし、劣等感なし、などなど・・・。こう言うと、異論を唱える人もいるだろう。そんな、悟りを開いた仏様のような人にはなれないとか、怒りや疑いなどは人間にはつきものだし、そういうものがあるから進歩向上するのだという人もいるだろう。
私が思う人間的要素の理想は、決して聖人君子のような人間像ではなく、世界中が平和で幸福な世の中になったときの、ごく普通で正常健康な人間の姿である。
正常健康な人間同士には、上とか下とかがないから、命令や服従がなく、もちろん差別もない。善悪観で人が人を裁くということがない。規則や法律や道徳観で人が人を縛るということがない。同じ価値観や考え方を人が人に押し付けるということもない。
 親愛の情みなぎり、互いを尊重し、仲良く助け合い協力し合う、和気あいあい、ほのぼのとした、温かい気風に満ち溢れる。
生まれて間もない乳児の顔を見て、嫌な気分になる人は殆どいないと思うが、幼い子供の表情やしぐさが人の心を和ませてくれるのは何故だろう。子供のころは純真であどけないものだが、大人になるにつれて、純粋さや素直さが失われてくるのは何故だろう。人間とはそういうものだと、思っている人も多いだろう。だがしかし、周囲社会の影響で純粋さや素直さが失われるとも言えるだろう。だから、大人になったら純粋さや素直さだけでは今の社会では通用しないということにもなる。
ここで述べた正常健康とは、特別な立派な人を指すのではなく、ある意味では幼い子供のように、純粋で素直な人ともいえる。だれもが純粋で素直な人から出発しているのだから、人は正常健康になるために何かを足したり加えたりする必要はなく、余分なものを取り除けば、元々の純粋で素直で正常健康な人になると思う。
それが私の人間観である。
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幸福な人生 快適な社会 1

 人は個々それぞれに自分の幸福、あるいは家族の幸福、もっと広い範囲の多くの人の幸福を願い、飢餓や貧困、争いのない平和な世界を願っている人が殆どだと思う。
 この願いを実現するためには、どうすればいいか、ということになると思うが、それを考えるときに、今日の世界情勢や社会環境や人間関係など、その中での幸福や平和ということならば、それには限界があると思う。なぜならば、今日の世界情勢や、社会環境や、人間関係などには、幸福や平和に逆行していることが随分多いと思うからである。
 しかし、人によっては、今日の状況の中で幸福や平和を考えなければ、それは空想的な抽象論にすぎない、という意見を持っている人もあるだろう。だが、ある意味では今日の状況を前提にして考える幸福や平和では、その域を出ないもの。つまり、その程度の幸福や平和にすぎないということも言えると思う。
世界中のすべての人が幸福で、世界中のどこにも争いのない平和な世界。こういうものを理想論だ、空想論だ、現実的でない、と片付けないで、このような幸福や平和が、本当に実現不可能なものかどうか、と考えてみたい。
幸福や平和を願っていながらも、それが実現されているとは言えない今日までの人間世界の実情から、今一度、人間と社会のあり方、その実現方法について、根本的に見直したい。

 幸福・平和・繁栄。物質的にも豊かで、安定した快適な社会、というものを実現する要素は、数多くあると思うが、ここでは一応の分類として、人間の持つ意識や考え方や心の持ち方や言動などの人間的要素と、物や環境などの物質的要素と、制度機構などを設けてそれを運用する社会的要素とに分類し、分かり易く、人と物と社会、という表現にする。
 幸福・平和などの言葉を用いたが、殆どの人がこれを願い、望んでいるとしても、これらの言葉の中身となると、一人一人大きな違いもあるだろう。平和を願っている者同士が争い合ったり、幸福になろうとして他の人が不幸になることもあるから、幸福とは何か、平和とは何か、すべての人が平和に幸福に暮らすのは不可能なのか、よくよく検討する必要がある。

 私は、私なりの表現で「幸福な人生と快適な社会」を理想としている。
以下に、「幸福な人生と快適な社会」の要素を人と物と社会という側面から述べてみたい。
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