3.正常・健康・真実に焦点を合わせて理知的生活をすること。

[個人の意思と社会システムによって]
本来、人間も宇宙自然界の一部分として誕生し、あらゆるものと関連をもちながら存在しているのではないだろうか。生きる限りは、正常、健康への欲求や真実に調和しようとする方向性を本能的に持っているのではないだろうか。それにもかかわらず今の社会の人々の正常、健康、真実への関心が薄く、それに反した行動をしてしまう原因は、理知的能力の未熟にあると思う。多くの決めつけが存在して思いの反応が膨らみ、自分の実体が見えない、正常な状態や本当に健康な状態がわからない、真実の世界が見えない。理知的能力の未熟により、誤解が生まれ、自他の苦しみが生じ、争いや様々な社会問題が起きてきているのではないだろうか。

人間の理知的能力を育成するためには、各自がその必要性を理解し、各種検討機会、研修機会に参加し、また各個人に合った方法で日々練習を繰り返しながら、各自の意思で研鑚を身に付けるよう努めなければならない。また社会的仕組みとしても正常、健康、真実に焦点を当て続け、異常や間違いを発見し除去していく社会システムを機能させる必要がある。そのシステムが機能する社会に身を置き生活することで、心の落ち着きが生まれ、自然に無理なく意識が集中して外れにくくなる。社会システムの具体例としては、《日常生活・社会活動》《研究会・検討機会》《人間社会科学研究所》の3つの要素で構成し、研鑚科学を基盤としたシステムモデルを考案し、現在、社会実験を試みている{注6}。また生涯学究制では、誕生から生涯にわたって正常、健康で幸福に生きることを目的に、理知的生活ができるよう様々な研修機会を設けている。各個人が理知的能力を育むための環境については、アズワン活動を通じ一つとして協力し合う中で実現を図っている。人間の幸福実現に向けて、個人と社会環境・機構の両面からのアプローチで理知的生活を実現させ、社会活動を実践しようとするものである。

[人間性を基調にした社会に]
理知的生活を身に付けた人は、本当の自分を知り、真実の世界を知り、間違いや異常によく気づき、その原因を除去して修正しながら、日々の暮らしや社会活動をしているという感じだろうか。正常であり、健康であり、真実であること。これは特別なことではない。人間としてもっとも基本であり、ここが幸福な人生の出発点になる。この出発点を見誤っているから、何をやっても常に異常が発生する危険性をはらんでいるとも言える。幸福を望んでいても反対方向の道を選んでしまう。各個人の理知的能力と研究方式による社会システムを機能させることにより、幸福への道が明らかになり誰でも安心して歩むことができる。自分を知る過程で人格が形成され、個々の持ち味や才能が表現され、社会の中で発揮される。また社会機構や制度も人間にふさわしく宇宙自然界に調和したものになる。そして人間性を基調とし、愛と理知に立脚した創造性あふれる文化、文明が育まれていくのだと思う。


(参考資料および注釈)
注1:アズワン活動
人間を含めた世界の本来(真実)の姿は、個々別々に切り離れたものでなく、全て関連のある「一つの存在」ではなかろうかという観方に立って、人類幸福を目的に日常生活や社会活動を営もうとする社会活動体。
注2:「看護のための人間科学を求めて」杉山俊夫 ナカニシヤ出版 2000年
注3:検討機会:ここでいう検討機会は、研鑽科学にもとづく人間や社会に関する全てのことについて検討・究明する機会。
注4:人間社会科学研究所
注5:生涯学究制
注6:「幸福社会実現のための社会モデル」 真保俊幸 人間社会科学研究所研究レポート 2004年
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2.理知的能力を身に付け伸ばすこと

[次のステップへ]
心が落ち着いていて平静であることは、人間にとって重要な要素ではあるが、それだけがゴールではない。それを最終目標とする場合、絶対者の存在や何かを信じる信仰方式で容易に実現できるかもしれない。しかし正常、健康、真実に生きることを目的にする場合は、何かを信じきって疑わないこと自体が異常なことなので、信じる方式は採用しない。むしろ自分の考えで安易に信じたり疑ったりしないで、科学的、理知的能力を機能させるために、心をとりまく環境を整えるという意味である。

前述したように環境や行為を見直し、自覚を促すことなどにより、心の平静、平穏はある程度まで実現できる。しかしそれは起きてくる心の反応を表面的に処理している段階である。反応が生じるプロセスには手がついていないから、反応はたびたび起きる。起きてもそれが自分の思い(反応)であり、現実に気づくことで、貪欲や嫌悪などの過度な反応や妄想に発展したり、とらわれたりしにくくなるということ。反応が起きる状態にしたままでは、無意識のうちに感情が心の深層に抑え込まれることもあり、それが何かのきっかけで爆発的に噴出する可能性もある。雑草も根から抜かない限り、やがて芽が出る。

人間を正常、健康な状態に保つためには、からだ同様心の面についても、正常、健康な状態を知り、どこかに間違いや異常がないか常に観察し、あればその原因を見出して除去しなければならない。漠然とやっていたり、なんとなくでは実現しないもので、理知的能力を機能させる必要がある。心とからだは密接不離であり、からだのみでなく心の健康にも意識をむけ、客観的に科学すること。

心の正常、健康とはどのような状態だろうか?
心は様々な対象に対して反応を繰り返している。反応のプロセスとはどのようなものであり、間違いや異常はどのように入り込むのだろうか?

[心の反応のプロセス]
心が反応する対象は、現実の様々な現象、人の行為や言動、自分の考えや思い、記憶、感情、欲求などいろいろある。人間の感覚器官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、心など)が対象と接触することで反応開始のスイッチが入る。接触がなければ対象は現実に存在していても認識されず反応は起こらない。自分にとっては存在していないに等しい。世界のあらゆるものに対して、今現在、この瞬間に自分の感覚器官で接触している部分しか認識されていないということ。ほんのちょっぴりだ。さらに感覚器官の機能も人間用の限界があり、もっと優れた機能を持つ生き物もある。またひとりひとり差があったり、体調や加齢により性能が変化したりもする。頼りきれないものだ。

接触により反応は始まる。例えば冬の朝屋外に出て「さぶ~」とからだを縮めたりするが、良く観察してみると、言動や行動の前に感覚があることに気づく。「寒い」という言葉で表現される前に空気と皮膚との接触があり、皮膚で感覚を感じている。からだの部分によりその感覚の度合いに差があったりもする。現実はそうなのだが、「寒い」という言葉と漠然とした印象しか意識にのぼらない。「寒い」という言葉には、過去の体験から獲得した様々な観念が入っていて、その時の感覚だけではない、意味付け、概念化が行われている。単純に言えば、寒いのは嫌なこと、嫌なことは避けたい、からだを丸めて小走りに部屋に戻ってストーブの前で固まる、というように反応は進んでいく。皮膚で感じた感覚そのものだけでなく、寒いことは嫌なことという過去の体験からの意味付けがその後の反応を促進させているようだ。

[感覚に気づく]
感覚とはどういうものだろうか?実際に自分で観察してみてほしい。例えばコーヒーでも飲みながら自分を観察してみると、「おいしい」「ああ、ほっこりする」などの前に様々な感覚があることに気づく。コップを持ったとき、ただよう香り、口に含んだとき、のどを通過していくとき....。瞬間的に発生して、すぐに変化し消える。感覚は感覚であり、そのものには意味も何もないようだ。「自分」とか「コーヒー」というのもない。自分で感覚に意味付けをして脚色を加え、快、不快の感覚を伴わせているという感じだろうか。しかし普段はその感覚に自分が意味付けしたり概念付けたりしているという自覚はほとんどない。

対象に感覚器官や心が接触して生まれる感覚そのものは自然なものだろう。しかし実際ある感覚には気づいていないことが多い。その感覚に快適なもの、不快なもの、好きなもの、嫌いなもの、正しいもの、間違ったものなど、意味付け、概念化して認識し、好きなものは欲しい、嫌いなものはいらないと反応していく。対象があり、感覚があり、それに自分で勝手に意味付けしているという自覚がないと、さらに反応は進行し、貪欲、執着や嫌悪、憎悪に発展していく。ここまで増幅した観念を何とか取り除こうとしても、それ自体は反応の結果であるのでとても難しい。また反応のプロセスの間違いや異常を除去しない限り、どんどん生まれてくる。自分を妄想の世界に引き込み、現実を見えなくし、真実からどんどん遠ざけていく。

まずは実際の自然な感覚に気づくこと。見たまま、聞いたまま、臭ったまま、味わったまま、触れたまま、感じたままの、意味付けられた概念や言葉に置き換わる前の、そのままの感覚を観察により気づくこと。「よく見る、そのまま見る」にしても、対象に集中するだけでなく、見たままの実際の感覚を観察し気づくことが必要である。それなしにいくら「よく見よう」としても、一瞬にして概念にすりかわり現実から遠ざかる。

[自分が意味付けているだけ]
そのあと感覚に意味や条件を付けるプロセスに入るが、自分が意味付けていることに気づくこと。自分が過去に体験した意味付けの引き出しから、その感覚に合ったものを取り出してラベルしているようなものだ。実際の感覚には気づかず、体験的に自分が思ったにすぎないことを事実あるかのごとく錯覚している。観察によりそのことに気づき自覚すること。意味付け、つまり思ったことは自分が思ったこととして、それを決めつけずに、どこまでも対象とそれに反応した感覚を観察で調べ気づくこと。

観察により、自分の感覚に気づき自覚すること。
観察により、自分の意味付けであることに気づき自覚すること。
自覚がないから決めつけが生じ、決めつけにより意味付け・概念化が強くなる。意味付け・概念化により心の盲目的反応が促進される。感情が伴ったとらわれや決めつけが生じる。この繰り返し。
この自覚により、盲目的反応の進行が止まる。心の癖を止める。
観察により、気づき自覚するための理知的能力を育てること。

自分を観察してみよう。世界を観察してみよう。
私と思っている「私」とは?世界と考えている「世界」とは?
意味付けされ、概念化される前の、そのままの「私」。そして「世界」。
からだも心も反応を繰り返し、一瞬もとどまってはいない。世界の現象も常に変化し続けている。人間の思いや考えで現実を切り取り、「私がやったこと」とか「私のもの」とかと意味付けているだけ。けっして固定し決めつけたりできないものではないだろうか。

[研鑽科学によって]
決めつけず、客観的に観察し調べるための科学的、理知的能力を「研鑽科学」という。科学的に調べるには、調べる対象が何か、それを観察でとらえたもの(感覚)は何か、そこから考えたり思ったりしたこと(概念)は何かというプロセスを正確に認識する必要がある。そのプロセスが見失われ、概念のみが大きくなる異常が発生することで決めつけが生じる。決めつけることで、見えているはずの事実が見えない。感じているはずの真実に気づかない、誤解している。決めつけることで、心の反応が盲目的に進行する異常プロセスが引き起こされる。決めつけのない研鑽科学により、からだの感覚や心の状態に気づき、本当の自分を知る。事実そのままや真理の法則に気づき、本当の世界を知る。研鑽科学により、事実は事実として、感覚は感覚として、意味付けや概念(思いや考え)はそれとして正しく認識され自覚することで、心の反応が正常なプロセスをたどる。事実や真実に則った正常、健康な心の状態で生きることができるようになる。

[理知的能力の育成]
では、どのようにして理知的能力を身に付けたらよいのだろうか?
今日までの学校教育の中では、人間として正常な理知的能力の育成を十分にやってきているとは言えない。知能の育成や心の平静を目的にしていても、知識や道徳などを覚え信じる方式を取り入れている場合が多く、結果的には、決めつけを異常とも思わない知識偏重人間を養成している。頭で理解しいろいろなことを知っているつもりでも、本当の自分が見えず、人が見えず、現実そのままを生きることができない。理知的能力の育成は、人間が正常、健康に生きていく上での基礎であり必須である思う。人間は他の動物にはない創造性豊かなすばらしい知能を持っているが、理知的能力を身に付けない限り、それを使いこなすことは難しいだろう。知能は使い方を間違うと危険でもある。今はたくさんのことを覚えるために学校等へ通って多くの時間と努力を費やしているが、理知的能力の育成にも同様な投資が必要だろう。環境を整備し時間をかけて意識を集中させ、練習を繰り返して着実に育てていかなければならない。またそのための理論や方法を研究・試験し、制度や機構を確立して、積極的に推進していく必要がある。そのための社会的な試みとして、人間社会科学研究所{注4}では研鑚科学に焦点を当てて人間や社会の本質について研究を進めている。また生涯学究制{注5}では、理知的生活ができるようになるために、その方法についても具体的、実際的な試験を繰り返しながら、検討を積み重ねている。理知的能力を育成するには、その人の段階に合った研修機会に参加しながら、適切な環境とプログラムのもとで、確実にやっていくことがもっとも効果的と考えられる。
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1.心が落ち着いていること。平静であること。

[環境の要素]
人間の理知的能力を育て伸ばすには、心が落ち着いて平静、平穏であることが必要となる。なぜなら理知的能力には、精神面、感情面が大きく影響するからである。不安、恐怖、怒り、イライラ、嫌悪、有頂天、嫉妬、優越感、劣等感、不足感、渇望、執着....。これらの言葉で表現されるような、心が落ち着かない状況では、いくら現実や真実に焦点を当て理知的能力を働かせようとしても、集中できない。環境要素にその原因がある場合も多く、そのような原因はできる限り除去する。

人間の心は、環境中の様々な物事に連動するように反応している。心の反応は、浮かんでは消える変化を繰り返している。意識にのぼるものもあるが、気づかぬまま消えていく反応も多い。また意識されてもすぐに消えるもの、長く残るものもある。心が落ち着かなくなるのは、意識に強く長く残る反応によるものが多いようだ。あまりに強烈で不快な反応であるため、逆に無意識の中へ深く押し込めてしまう場合もあり、それが何かのきっかけで抑えきれず噴出し、心とからだに異常を来たすこともある。

心が平静でいられなくなるような反応を引き起こす環境要因がある場合は、できる限り原因を除去し環境を改善する。例えば、意思を侵される、束縛される、無理に押し付けられる、甘い誘惑、おだて、多量過激な情報、貧困、争い、競争、身体的苦痛....など。このような心を刺激する環境要素がはじめからなければ、いらぬ反応をしないで済むとも言える。極端な例だが、どんな理由があろうとも戦争など人と人とが争い殺し合っていては、平穏な心の状態でいるのは不可能に近い。しかしそれに近い体験ができるゲームソフトが開発されていて、子どもが家庭で夢中になって遊んでいたりする。面白がってやっているように見えるが、子どもの心はどのような状態であるか?理知的能力の未熟な子どもは、環境との反応で心が形成される要素が大きい。会社等で規則が多いと集団管理はしやすいかもしれないが、束縛感から働く人の心が落ち着かない状態になっているとしたら、本当にいい仕事はできるのだろうか?また競争心をあおったりノルマを課して能力を発揮させる方式は、業務成績の向上に一時的効果が出るかもしれないが、働く人の心は消耗していくのではないか。

またやることが多すぎると頭が忙しくなり、時間的にも現実や自分の心を観察する余裕がなくなる。一人の人が生きていくには、仕事のこと、家事のこと、家族のこと、家計のこと、結婚のこと、車のこと、家のこと....その時々でいろいろなことを考える必要が出てくる。専門的な知識が必要になることも多い。それを各人が別々に対応していかなければならない状況では、頭が忙しいし時間もなく適切な対応ができない。例えば子育て一つとっても、子どものこと、親自身のこと、住まい環境のこと、経済的なことなど、実際は総合的に検討する必要が出てくる。もしひとりひとりの人生を総合的にサポートするコンサルティング組織があったらどうだろう。そこで各専門のアドバイザーと共に検討できたら迷いや不安が軽減され、心に余裕が生まれるのではないだろうか。各個人の社会生活や人生について適切に検討・調整できる機能をもつ機関や活動組織、産業形態(アズワン活動{注1}など)も考えられるだろう。協力し合う社会組織形態の中での心の安定、安心の実現である。

人はあらゆることに関連して存在しているので、一人だけで生きようとすると心に無理がかかるのは当然だろう。理知的能力や心も個人単位で分離されたものでなく、相互作用を及ぼし合いながら機能しているのではないだろうか{注2}。だから誰かと話をする機会があるというのは、人間として知性や心を育くむ大切な要素である。思ったこと、気にかかることなどを誰か他の人に気軽に話すことができる環境にいること。さらに話すだけでなく、いっしょに考えたり調べたりできる環境があることが心に安心感をもたらす。逆にそういう機会がなく孤立した環境にいると、思いが蓄積し連想的に膨らんで妄想状態に陥ったりする。未検討のままの思いはやがて頑固な思い込みになっていく場合も多い。仕事や家庭の事情で生活環境の変化はあるだろうが、けっして一人ぼっちにならないようにすること。例えば、検討機会{注3}などに定期的に参加し、日ごろの自分の思いや考えを何でも出し合いながら、本当はどうなのだろうと調べ合うことは、検討内容以上に各人の心の落ち着きに大きな効果を及ぼすと考えられる。また人によっては、トラウマやPTSDのように専門的治療が必要な状態にある場合もあるので、各人の状態や段階に合った適切な話し合う機会が、全員もれなくあることは環境要素として重要である。各個人の意思だけでなく、社会の仕組みとしても孤立した人が出ないよう補っていく必要があるだろう。例えば会社や活動組織の中に人事部を設け、仕事や運営ではなく、各人のからだと心の健康や生活について客観的に焦点を当てる専門員を置くなど方法はいろいろ考案できる。

[行為の要素]
個人の意思で、心が落ち着かなくなるような行為をしないということも考えられる。例えば、うそをつかない、人の悪口陰口を言わない、だまさない、侵さない、好奇心からやたらと顔をつっこまない、泥酔しないなど。○○は悪いことだからしてはいけないというような道徳的、戒律的なものでなく、心を落ち着かせなくする反応はあえて起こさないようにするということ。欲求や思いにまかせ、このような行為を安易に行い反応を繰り返すことで、心の反応癖がつく。結果的に思いが膨らみますます心の落ち着きがなくなる。例えば○○さんのことが嫌いだからとつい悪口を言ってしまうことで、ますます嫌いに思うようになる。会うことも避けるようになり、実像とかけ離れた嫌悪感が膨らんでいくとか。人間の行動や言動の基には心がある。からだや言葉の行為をするということは、心の行為をするということで、心に与える影響は大きい。そのことを知らず、安易な行為をすることで思いや感情を肥大化させ、自分で自分の心の平穏を妨げていることも多い。

[心の反応の観察と自覚]
心はいろいろなことに反応する。あくまでも心の反応であることの自覚。対象に対して自分が反応しているということ。そこに気づかないと、思いの世界にさまよい、現実や真実に焦点を合わせることができない。心の反応を現実のものと思い違いすること自体、認識に間違いがあり正常ではない。現実から離れ、真実から外れることで無理が生じ、不満、不安などが自分を苦しめて、心が落ち着かなくなる。健康な状態とは言えない。

[思いの中ではなく現実に生きること]
様々な反応を示す自分の心を観察し、心の反応であることを自覚して、まずは現実の自分自身に意識をとどめること。心がどんなに暴れても、自分の心が反応しているのであって、自分は今ここで現実に生きていること気づく。思いの世界にとらわれないで、現実の自分を見つめること。真実も現実も、過去の思い出にはなく、未来の希望や憶測にもなく、今この瞬間にしかないのだから。真理に即応するとは、今ここですること。生きるとはその流れるような連続である。だから現実の自分に意識を集中させることで心の平静を保つことができる。「自分はこう思ったんだな。で、事実はどうなのだろう?」と日常の中で意識してみる方法も考えられる。

どのような方法で観察し自覚することができるようになるのだろうか?自分の心とからだを客観的に観察する理知的能力を身に付ける必要がある。理論や方法を頭で理解しただけでできることではない。知っていても実際には使いものにならない。人間の理知的能力に焦点を当てて、主題に入っていきたい。
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理知的生活のすすめ

-人間が正常・健康・真実に生きるための要素の解明と方法について-

私たちは日々現実の中で生きている。真実というものものに包まれて存在しているのではないだろうか。それなのに現実そのまま、真実そのままが見えていないで誤解をしているとしたら....。真実そのままに生きることができていないとしたら....。それはなぜだろう?自分を見誤り、世界を誤解しているから、真実が見えないから、あらゆる問題が発生してくるのではないだろうか。怒りや憎しみ、渇望や執着など現実には存在しないものが、実在するかのごとく錯覚され、自分の心とからだを苦しめ周囲へ影響を及ぼしながら、異常な社会現象を引き起こしているのではないだろうか。目の前にあるものがそのまま見えないのには必ず原因がある。人と人とが相容れず誤解し争い合うのには必ず原因がある。人間として正常でないもの、異常な何かが発生している。それは何だろう?

では、人間が正常のままに、健康なままに、真実のままに生きるためにはどのようにしたら良いのだろうか。その実現のために、人間に備わった理知的能力を育成し発揮することで、根本原因を解明し異常要素を修正して、人間そのままの人間らしい生活をすることはできないだろうか。

ここでは理知的生活を実現するために、以下3つの段階に分けて、それぞれ個人からと社会環境・機構からの2つのアプローチで考察を試みた。また既出の資料や現在試験的に実施されている方法については、特に{注}を付し別項にて参考資料とした。

(1)3つの段階
1.心が落ち着いていること。平静であること。
2.理知的能力を身に付け伸ばすこと。
3.正常・健康・真実に焦点を合わせて理知的生活をすること。
(2)2つのアプローチ
1.個人からのアプローチ
2.社会環境・機構からのアプローチ
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