ホジョン印象記 まとめ

ホジョンは6月22日韓国に行った。僕は、去年10月27日に生まれてから8ヶ月近く同じ屋根の下でホジョンと過ごした。僕のホジョン体験には二つの面があったようだ。

ひとつは、ホジョンと接して、その「目の中に入れても痛くない」と言えるほどの可愛さを感じたということだ。自分の中から今まで体験したことがないぐらいの情が引き出されたようだ。癒されるという感覚も味わったように思う。

もう一つは、少し大げさに聞こえるかもしれないが、ホジョンを通して人を知るみたいな体験をしたような気もする。その体験は、もちろんこれからも続いていくわけだが、僕が人というものを考えるときのベースになる一つの体験と言ってもいいかもしれない。

普段も周囲のいろいろな人に接して、僕は人体験をしているわけだが、そういう中では味わえないもの、つまり人がどのように生まれて来てどのように成長していくかの一端に、短期間ではあるが直接触れることができたということだ。

8ヶ月の間にもその身体の大きさは倍以上になり、一箇所に留まっていたものが、そこらじゅうを転げまわるようなったという身体およびその動作の急激な成長変化とともに、ホジョンが人に接するときに示す、顔や目の表情の変化にも大きなものがあった。

そういうことを通してホジョンの内面(心)も大きく変化してきたように思う。僕の憶測だが、ホジョンはこの間に、快・不快、安心・不安、満足・不足などという言葉で表現してもいいのではないかと思われる状態をすでにその内面(心)に体験しているように思う。

さらには、楽しいとか飽きてつまらないとか、怖いとかいうような感情も萌してきているといってもいいかもしれない。

僕(大人)が自分の内面で体験する、いろいろな気持や感情を表す言葉でもって、今のホジョンの内面のことを表現することが本当に適切であるかどうかはわからない。ただ思うことは、ホジョンはすでに人の内面における、いろいろな状態を体験しているのではないかということだ。

内観してみると、嬉しいとか怖いとか不安だとか恥ずかしいというような気持を、自分が4・5歳といった、随分幼少の時期に体験した記憶が蘇ってくることもある。その時期にはもうすでに、そのような気持や感情が形成されているということだ。さらにはそのような気持や感情が現れる心の状態も形成されてきているということだ。「三つ子の魂百まで」と言われることに、何か頷けるものがある。
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印象記 Ⅵ

口も利けず(言葉も知らず)、いわゆる自他の意識も持たないであろうホジョンが人に対して示す反応(主に目の動きや、泣きや笑いの表情)を見ての僕の推測に過ぎないが、ホジョンはある時期から人を他の物から区別して見るようになり、さらにある時期から人を見分けるようになったと思われる。

例えば、ホジョンは僕が抱いても泣きやまないとき、妻が抱くと泣きやむ。妻が抱いても泣きやまないとき、母である娘が抱くと泣きやむ。ある時期から僕と妻と娘を識別するようになったようだ。ホジョンが抱かれて泣きやむというのは、安心するからなのだろうか。それも日常オッパイやったりしてホジョンと一番接触の多い母である娘に抱かれると一番に安心する。ホジョンは娘がそばにいると一番安心しているような印象も受ける。いつもではないが娘が用事でそばから離れようとするだけで、ホジョンが泣き出すこともある。

人を見分けることができるようになると、いわゆる人見知りするようにもなるようだ。ホジョンは生後4ヶ月のころ特に人見知りが激しかったようだ。検診とかで病院に連れていくと他の多くの子の中で一番大泣きしていたようだ。何か不安になるのだろうか。不安になって泣くということだろうか。娘や妻の話では、女の人よりも男の人に対しての方が人見知りが激しいらしい。男女の区別もそれなりに感知しているらしい。

これらのことから僕が思ったことは、この時期、つまりホジョンが人を見分けることができるようになったこの時期に、すでにホジョンの心に人に関わる安心と人に関わる不安みたいなものが出てきているのではないかということだ。意識されてはいないが、人に関わっての安心の状態と不安の状態をホジョンがすでにその心に体験しているということだ。
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印象記 Ⅴ

ホジョンのこの8ヶ月間の成長の中で、特に僕が興味を惹かれたのは、周りの大人に対するホジョンの反応だ。例えば泣いたり笑ったりすることにおいても、さまざまなケースがあり、またその表情にもいろいろなニュアンスが出てきているということだ。

ホジョンの内面がどのように変化してきているのかは、直接観ることはできないが、いわゆる気持の変化やいろいろな感情の発生と呼んでもいいような事態がホジョンの中に随分と出てきているのだろう。ホジョンの内面がより豊かになり、徐々に人らしくなってきていると言ってもいいのかもしれない。

そういう中でも僕が面白いと思うのは、ホジョンの中での人を見分ける能力の発達といったらいいだろうか。

生まれたばかりの赤ん坊は視力がほとんどないようだ。ホジョンの目が動くものを追うようになったのはいつの頃からだったか、生後ひと月かふた月か、よく覚えてはいないが、そのうち人の動きを追うようになってきた。ホジョンの周りで動くものといったらほとんど(母親などの)人だから、人の動きを追うといっても、最初から人を他の物から区別して見てはいなかっただろう。

ただ、そのうち人の顔を見るようになり、さらに人の目をハッキリ見るようになり、人と、目と目と見合すみたいな感じも出てきて、人の顔を見て笑ったり泣いたりと、人に対していろいろな表情を作る。最初人の目をチラッと見るが、あとは如何にも興味ないといった顔をして、目を逸らすこともある。

もうすでに(他の)人というものが、ホジョンにとって他の物とは区別される存在になってきていることは確かなようだ。いつの時点からそのようになったかは、よく分からないが・・
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印象記 Ⅳ

あるときホジョンが寝転んでいる横で、僕がくしゃみをした。見るとホジョンの顔が歪んできて、ウェーンという感じで泣き出した。大きな音(くしゃみ)にびっくりしたようだった。泣き出すときのホジョンの顔は何とも言えないほど可愛いものだが、僕はそれ以来ホジョンの近くではくしゃみをしないようにした。

くしゃみばかりでなく、近くで大人が急に大声で話したりしてもびっくりするようだ。大人はびっくりしても泣くことはないだろう。ホジョンがびっくりして泣いたとも言えるのだが、何か怖がっているというようにも受け取れる。怖いという意識はないにしても、そのときホジョンの中に<怖いという感情>が生まれているのかもしれない。

日常使われる<怖い>という言葉だけでその時のホジョンの心理を表現できるわけでもないだろうが・・

お腹が空いて泣く、眠たくて泣く、抱っこして欲しいと泣く、ぐずって泣く、びっくりして泣く、怖がって泣く、等等、僕がいろいろに受け取るわけで、ホジョンがそういう意識(思い)を持って泣くわけではないだろう。でもホジョンにしても、周囲(の人)の状況や自分の身体の状態をホジョンなりにキャッチしての反応(泣き)を示しているのだろうから、ホジョンなりにいろいろな欲求や感情を体験していると捉えてもいいのではないか。
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印象記 Ⅲ

ホジョンの泣きと笑いがセットになって観察されるときがある。おもちゃをいじったり舐めたり、そこらをごろごろ転がったり、そんな独り遊びに飽きる(?)と、泣き出すことがある。大泣きするというよりべそをかくという感じだ。そのままほっておくと泣き声もだんだん大きくなるが、抱いてやると、すぐに泣きやんでニッと笑みを浮かべる。ガラッと表情が変わる。如何にも「してやったり」という感じ。

生まれたばかりのころは、ホジョンが泣くのは、主にお腹が空いてオッパイを欲しがるときと眠たいときのようであったが、それ以外にも、ホジョンが自分の内なる欲求を泣きで表現するようになってきたということか。言葉を知らないホジョンは泣きと笑いで自分(の内)を表現しようとするのかもしれない。こういう捉え方も全部、僕(大人)の感情(感覚)移入による解釈なのだが・・

抱かずにほっておくと、ホジョンの泣き声がだんだん大きくなる。涙も出てくる。それを見て「ホジョンがまた怒りだした」と妻は言う。大泣きし始めてから抱いてやると、泣きやむのだが、その場合すぐにはホジョンの顔に笑みは浮かばない。

こういう場合一般的には「ホジョンがぐずっている」とか「駄々をこねている」というようにも捉えられるわけだが、果たしてこのときのホジョンの内に腹立ち(の芽)があるのかどうか?・・

大人の腹立ちにしても、その多くは所詮我儘が通らないときに起こるのだろうから、その心理状態としては、乳幼児の<ぐずる>とか<駄々捏ねる>ということに通じるような気もするが、どうだろうか?・・
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