自立した社会人⑦

自立していない人は、何かに依存してる状態の人とも言えるかもしない。

アルコール依存症の人は、酒無しには暮らせなくなっている人。
これは一種の病気として捉えられるから治療対象になって、自他何とかしようとなる場合が多い。

が、観念の方で依存的になっているのは、あまり社会的に焦点が当たらず、野放し状態になっているようだ。

人の目が気になるという話をよく聞く。
人から誉められたり、当てにされたりすると、いい気持になったり、やる気が出たりする。
逆に、人から貶されたり、当てにされなくなったりすると、がっかりしたり、やる気がなくなったりする。
アメとムチで教育(調教?)されてきて、そういう外発的なもので動くような観念になってきてしまっているのだろうか。
自立した人は、自発的自由意志からの行為となるのだろうから、あまり、人からの評価や反応が気にならないのだろう。

相手のためとか、相手が困らないようにという、何か道徳的な考えでやろうとする人も、道徳観や価値観に依存している状態とも言えるのかもしれない。
これも、相手が思わぬ反応を起こしたりすると、がっかりしたり、期待はずれで落ち込んだり、うまくいくと過剰に反応したりと、一喜一憂の世界なのだろう。

正義感や、競争意識や、優劣感等、外のものでやる気になったり、張り合いを感じたりするのも、みな外発的なもの。何か自分の外のものに依存している状態なのだろう。

良いとか悪いとかの観念に依存している場合、自分のや人の心の方は見ないで、物事の表面だけを見て、良いか悪いかという考えでみようとする、自由に考えれない状態。思考停止の状態とも言えようか。自発的ではなく、外のもの(何かの考え)で動くような状態。

状況のせい、周囲のせいのように捉えるのも、実際は自分が考えたことなのだが、それに縛られ、主体性を失い、窮屈な状態になっているということなのだろう。自発的な知性の働きがなくなってしまう。
状況や環境に依存的に生きている状態なのだろうか。

どんな場面、状況でも、外のものに依存的にならず、自発的に自由に考え・自分の中の意思を見て、そこから発するもので生きていける人が自立した人間像として浮かび上がってくる。
そうなるには、先ずは、自分の今の実態がどのようになっているのか、自分の意志の出所はどこから出ているのか、そこを見、捉えていくことから始まってくるようだ。
知らず知らずに、依存的になっているところが多々あるのが見つかって、そこに光を当てることにより、自立した人への成長が始まっていくのだろう。
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自立した社会人⑥

自立した人というと、自発的自由意志で行動しているという要素が不可欠だと思う。
が、改めて考えてみて、自発的自由意志で行動しているとはどういう状態なのだろうか?

やる気でやっている、やりたくてやっているのが自発的自由意志だという意見がある。
が、やる気でやっているから、やりたくてやっているから、自発的自由意志と言えるのだろうか?

やる気や、やりたいという気持の元を検べてみると、すべてが自発的なものから発しているのではなく、場合によると、外発的なもの、他動的なものがあることが観えてくる。また、その外発的なやる気が、自発的なやる気と結びついている場合もあり、本人には、それが外発的なものだとは全く自覚できなくなり、自分はこれがやりたいんだと、あたかも自発的自由意志でやっていると思えるような場合もあるのだろう。

サーカスの芸などのように、ある程度の知能が発達した動物に対して、飴と鞭によって調教すると、一見とても楽しそうに芸を演じるようになったりする。
しかし、その芸を、その動物が、自発的自由意志でやっているとは言わないだろう。

人間の場合も、今の社会の中では、教育や躾、社会通念・常識、仕組みなどによって、言わば調教されたような状態の中で、いろんなことにやる気を出そうとしている状態になっているとも言えるかも知れない。
飴=お金、富、名誉、階級、誉めらる、賞賛、勝ち、上、良いとされる・・・など
鞭=貧困、不名誉、使える、貶される、非難、負け、下、悪い・・・など。
このような価値観、扱い、仕組み、などによって、様々に観念付けられて、その観念をベースに、その観念の枠内で、やりたい、やる気でやろうのような意思が生まれている場合が多いのかもしれない。

ある子が、「将来サッカーの日本代表になりたい、だって、お金持ちになれるもん!」と言っていたという話を聞いた。
お金持ちになりたいというやる気は、自発的なものだろうか?
飴がほしいばかりに、懸命に芸をこなしている動物達の姿と重なって観えてくる。

自分のやる気は、どこから来ているのだろうか?
何をしようとして、やっているのだろうか?
そういう自分のやる気の元を探っていける、自分の元を知ろうとする人になっていくと、その元が、自発的自由意志からくるものと、外発的な、他動的な、観念的なものからくるものとが、だんだんに区別がついて見えてくるのだろう。

そしてまた、飴や鞭といった外のもので動く必要がなく、純粋に、人間が持つ自発的自由意志で行動できる社会が実際にあること、そして、そういう中で人が育っていけることの大きさも、切実に思われてくる

つづく
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自立した社会人⑤

今の社会の中で、自発的自由意志ではなく、周囲の状況や、規則・法律・ルール・きまり・教え・常識などに合わして動くことに慣れ親しんだ考え方が身に付いてしまっている人が多いのだろう。
そういう人は、自分も人も、自分の意思で動くのではなく、他のもので動くという人間観で見るようになってしまっている状態なのだろう。だから、、自分が動く場合でも、人に何かしてほしい場合でも、規則・法律・ルール・きまり・教え・常識等を持ち出して、それで動く・動かされるような感覚で暮らしているのだろう。

そういうことで社会も成り立っているんだという社会観も形成されてきているのだろうから、マナー・ルール・しきたり等が、あたかも、厳然と存在するかのような観え方になってしまうのだろう。
それで社会が成り立っているのだから、それを守っているかどうかが、一番の関心事になっていってしまう。
そうすると、規則やルールが人と人との関係の中に深く入り込み、人そのもの・その人の心が見えなくなってしまうのだろう。

例)花壇に花の種を植えたので、子どもに花壇に入らないでほしいという願いがあるという場合でも、他のもので人が動くという人間観・社会観の人は、「入ってはいけません」「立ち入り禁止」等というルールやきまりを作って、それを子どもに守らそうとする発想になるのだろう。
(それに加えて、守らないと罰を与えるという発想も加わり、更にルールを守ることを強いていき、罰を受けたくないから、ルールを守るという、ますます自発的自由意志から離れていってしまう)

自立した社会人たらんとする人は、自らが自発的自由意志で動こうとする人になっていこうとする。そうなると、他の人に対しても、その人はその人の意思で動くのだと見るようになってくるのだろう。
そうなると、人に何かをしてほしい場合でも、意思と意思の交流をベースにして、その人の意思になってこそ、そのことが成っていく、という発想になっていくのだろう。
上記例の場合でも、子どもに対して、「種を植えたから、花壇には入らないでほしいんだ」という自分の意思を伝えて、その子の意思に働きかけていくのだろう。
そういう観方に立った人は、仮に、子どもが花壇に入った姿を見かけても、即座に、「こら!」とか、「入っちゃダメでしょ!」と行動だけを見て、やめさせたり、叱ろうとする発想にはならないのだろう。自分の意思が伝わっているのか?その子はどういう気持・意思で花壇に入るという行動をとっているのだろうか?と、行為の前の心の方に関心が向くようになるのだろう。

人と人とが暮らしていく上では、仕組みや、こうしようとかいう合意事項はあるのだろう。
が、それをその人の意思でやっていこうという自立した人で運営していく社会と、それがあるからそれを守らねばならぬと、自他を縛って、その仕組みを維持することに重点を置く人の造る社会では、まるで異なった社会が現れてくることになるだろう。
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自立した社会人④

「自立」というテーマを考えていく時、”付き合い”で成り立っている関係に、光が当たってくる。

ある人の例:
風邪で咳が出ているので、咳止めの薬を呑みたいと思っている時に、親しい人の家に行った。そこに風邪薬が置いてあり、手に取ってみていると、その家の人が、「持っていっていいよ」と言う。が、その風邪薬は、鼻水止めの薬で、ほしい薬ではない。が、その家の人が、「持って行きなよ」と何度か言う。
せっかく自分のことを心配してくれて声をかけてくれているんだから、断るのは悪いし、効能書きにも小さく咳のことも書いてあるから、と、自分が咳止めの薬がほしいということは言わずに、その薬をもらって帰った・・・・なんとなく、すっきりしないまま。

これには、せっかく○○してくれるんだから、という観方があるのだろう。
これも、相手の人が、自発的自由意志でやっているというのではなく、わざわざやってくれている、せっかくしてくれているという、”恩を受けている”というような人間関係で捉える社会観から、そのように観えてくるのだろう。
せっかく○○してくれたんだから、という関係で捉える世界では、それに対しては、恩を返すような行動が、当然要請される。自発的なものではなく、その枠組みで動かされているような状態だろうか。

断ると、気を悪くするんではないか?という捉え方もある。
気持を受けたということはあるのだろう。
が、だからといって、ほしくもない薬をもらうことが、気持を受けたということにはならないだろう。気持と事柄が混線している世界。
また、”断る”というような意識になっている時は、状況がこうなっている、そういうことに対して、自分で結論を出して、それを言おうとするような状態なのだろう。つまり、相手の意見を聴き、自分の意見も出して、共に話し合うという状態ではない。決まったものと捉え、それに対して、決まったもので対しているような状態とも言えようか。

”付き合い”の状態では、自分の自発的な意志を見出すことも出来ないのだろう。曇りがかかったような世界で生きているという感じだろうか。
絡み合った人間関係の中で、関係面を気にしながら、縛り合いながら生きているような世界が見えて来る。
そこに、「自覚」の光が差し込むと、自分の意志が見え出し、知恵が働き出し、話し合える状態に心もなっていき・・・と展開していくのだろう。
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自立した社会人③

一見、自発的にやっているような行為でも、つぶさにその中身を検討してみると、自発的なものではなく、他発的だったり、見返りを求めていたり、依存的なものだったりする場合がある。

例えば、車を運転していて、細い道で、車とすれ違う場面。
車を横に寄せて、対向車を通してあげる。
対向車が、スーッと通り過ぎていく。
「クラクションも鳴らさないで・・・(ちょっとくらいお礼の挨拶くらいしろよ)」
かすかながら、気分が悪くなったりするという場合。

相手が何もしないことで、こちらの気分が悪くなる。
これは、いったいどういうことだろうか?


自分が自発的にやっているように思っているが、中身を検べてみると、「○○してあげる」という意識が潜んでいることが明らかになってくる。つまり、見返りを求める、恩を売るといった意識だろうか。
だから、何も返って来ないと、不足というか不満感が湧いてくる。
自分の内発的なものでないから、返るものがあって、やっと帳尻が合うような心理機構になっているようだ。


相手に対して、何かをする場合でも、自立した人と、そうでない人では、まったく違う世界での行動になるのであろう。
自立していない人は、相手を喜ばせようと思って(喜ぶはずだとして)、何かをするのだろう。「相手のためにしてあげている」という見返りを求めるような心境なのかもしれない。自分の思う結果にならないと、がっかりしたり、肚を立てたり、「せっかく、してあげたのに」という反応につながっていったりするのだろう。
自立した人は、自分がそうしたくてしているという自覚がまずあるのだろう。「こうしたら相手が喜ぶだろう」ということが、自分の考えであるという自覚もあるのだろう。相手に尋てみるとか、自分で選んだ場合も、相手が喜んでくれたらうれしいなというような心境なのだろう。相手が喜ばなかった場合も、そこを受け入れ、じゃあどうするか、とか、自分の考えの足りなさなどに思いがいく感じだろうか。

自立した人達が作る社会は、どんなにかスッキリとしたものになるかが、垣間見れるようだ。
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