研鑽社会化活動になるには?

研鑽とは、キメツケ・固定の無い状態から、本当はどうかと考えていくことだろう。
研鑽社会化活動とは、研鑽の状態で社会活動(仕事・暮らし)をしていくこと、また、社会がそうなっていく活動をしていくことなのだろう。
研鑽社会化活動になるかどうかは、研鑽の状態になっているかどうか、つまり、それを行う人が、研鑽状態にあるかどうかにかかっている。

キメツケ・固定の状態で行う活動は、キメツケ社会化活動となるわけだ。
だから、「研鑚会」と称する機会に出ていたとしても、その人の状態がキメツケ・固定の状態にあったとしたら、それは研鑽社会化活動にはならず、キメツケ社会化活動になる。
これは、アズワンカンパニーでもそうだろうし、研鑽ライフセンターの運営でもそうなのだろう。
名ではなく、実質がどうなっているかにかかっているということだろう。

研鑽状態=キメツケ・固定が無い状態=自覚のある状態とも言えようか。
研鑽状態の人になって行う活動が研鑽社会化活動。
そういう人になろうとしないで、形や名称で、「研鑚会」、「アズワン活動」、「一体」、「一つ財布」などとやっていても、それはすべてキメツケ・固定化活動になっていってしまうのだろう。

研鑽社会を本当に願うなら、研鑽状態の人=自覚のある人にまず自分がなること。
そして、同じ考え方の人で、そういう人に成り合うところからしか始まらないということなのだろう。
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研鑽生活を考える。

研鑽社会を実現しようと願うならば、研鑽そのもの、研鑽生活そのものを、知る必要があるのだろう。
知らなれば、実現できない。
気持だけでは・・・。

”研鑚会”と称する機会があるだけでは、それは”研鑚会生活”は実現できるかもしれないが、研鑽生活になっているかどうかは、検証が要るだろう。
いくら話し合う機会のある職場を作っても、そこに研鑽し得る人が実在しなければ、実質上の研鑽は実在しない。
最近の研修機会に、ある職場の人が来ていたが、そこの職場では話し合える職場を目指して、毎週研鑽機会があるそうだが、そこにいる人が、自分達が作った製品に対しての意見(クレーム?)が来ると、「そんなことはない!」「自分達はこうやっている」と、全然話を聞き入れられない。こういう態度・状態では、話し合いの職場は実現しないだろう。
機会があることも大事な要素なのだろうが、それ以前の要素が大事であることが浮かび上がってくる。

研鑽ライフセンターでやっている内容と、実際の職場での色々決済しなければならない内容と、別のものと映っている人も多々いるようだ。
これも、研鑽や研鑽生活がどういうものかが、まだ未消化、未理解だということなのだろう。

まず、個人の方で出来ることと考えた時(社会からについては、また後日)、やはり、どんな時も(仕事でも、暮しでも)、正常な状態の自分であるのかどうか、つまり、研鑽態度の自分であるかどうか、それはつまり、自覚のある状態かどうか、ということになってくるのだと思う。
自分の感覚、思うこと、考えること、これが、自分の中で起こっていることが自覚できている状態、つまり、人間の考えであることの自覚、人間の範囲を超えない状態、そこに立っている状態かどうか・・・、そこがあるかどうか・・・、そこを出発点にしているかどうか・・・。
そこがなければ、いくら”研鑽”と称する場を持ったとしても、研鑽は実現しないだろう。

真に正しい考え方に立つことである。これに始まる革命を、Z革命と一応呼んでいるわけである。そこから派生していろいろの考え方が生まれ、方法や行為が実現する。(『考え方の革命(山岸会事件雑観)』)


正しい考え方に立つ人(自覚のある人)は、何をしていても、そこをキメツケなく、自分の感覚・考えとして、つまり、一個人の意見として、幅ることなく、検討していける。自覚の無い人は、良かれと思ったり、謙虚なつもりで、無意識的にキメツケ、幅ってしまう。
「研鑚会があるか、ないか」の前に、先ずは、真に正しい考え方=自覚のある人がいるかどうか、そういう人になるかどうかが、研鑽、研鑽生活の実現には欠かせないと思う。

先ずは、自分の感覚であることの自覚がある人、それはつまり、自分の考えは正しいとは言えない状態(理屈じゃなく、そういう態度の状態)に成り合うこと。
ここが本命でもあるし、そこからしか始まらないとも言えるのではないだろうか。
そこを抜きにしての活動は、この革命からは、何の意味もないことになってしまうのだろう。
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研鑽生活(研鑽ライフ)は何処に?

研鑽ライフセンターの合宿研や研修や日常化レッスンで一生懸命取り組んだり、考えたりする。
が、日常の職場や生活では、そこで取り組んだことが、ぼやけてしまう。

研鑽ライフセンターの研鑽機会に、職場から人を送り出すことに力を入れても、しばらくはいいが、元に戻ってしまう。研鑽社会はなかなか実現しないようだ。

このような事例を耳にMにすることがある。
これは、どこにテーマがあるのだろう?

ある人が、「合宿研などで一生懸命やるんだけど、帰ってから一ヶ月くらいは、ボーっとしてしまう」と話をしていた。
これでは、合宿研に行くことが目的のようになってしまっている。
何のための合宿研か?
日常が研鑽生活になるために研鑽ライフセンターがあるのではないだろうか。
日常化レッスンでも、研鑚会に来て何かを考えよう、得ようとしても、何も進まない。「日常がレッスン」で、研鑚会は「報告・検討会」。そういう日々の、自主レッスンがあって、検討する機会があり、そういう積み重ねがあって、日常が自覚のある暮らしになり、そこから研鑽生活が展開していくのだろう。

研鑽ライフセンターでやることと、職場や日常でやることは、別というような、二分法的な考え方も、邪魔をしているのかもしれない。
「考えたり、検べたりは、研鑚ライフセンターで。職場では、そんな暢気なことは言ってられない。やることもたくさんあるし、稼がないといけないし・・・」
こういう考え方では、いくら研鑽会に参加しても、何も変わっていかないだろう。
研鑚会頼み、依存的な体質で参加しても、その場限りのものになってしまうのだろう。

研鑽生活は、研鑚会に行ったら、出来るようになるわけではない。
研鑽生活をしていこうとする人によって、研鑽生活が生まれてくる。
そういう人になろうとする人には、研鑽機会は欠かせない場になる。

研鑽社会化活動をなさんとする人は、自らの研鑽生活が軌道に乗り、周囲・社会の人達も、そういう道に乗れるように働きかけていく人なのだろう。
産業活動や、運動を、従来の観念の基盤の上に組み立てていても、研鑽社会化活動にはならない。
産業活動も、運動も、暮らしも、すべて、自覚のある人により、研鑽生活が展開していく。
出発点がどこにあるかなのだろう。
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