主体性の回復

社会革命は如何に成されるかの自己革命の項で、「自己革命」について様々な角度から論じられているが、実践的主体性の回復の過程という表現が出てくる。

「主体性」を広辞苑で見てみると、「主体的であること。また、そういう態度や性格であること。」とある。
「主体的」を見てみると、「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」とある。

「この先、この社会はいったいどうなっちゃうのかなぁ。」とか、
「まったく、この会社は、なってないんだから・・」とか、
「〇〇のせいで、こうなった」とか、
「こういう時は、こうするのが当然でしょ」とか、
「普通だったら、こうするよなぁ」など、
主体性がなくなってしまって、考えたり、行動したりしている場合が多々あるようだ。
依存的、付和雷同、他動的、他律的、人のせいにする、自分がなくなる・・・人として正常でない思考状態になってしまうようだ。

これがどういうことか・・・というのでは、様々な角度から検討できると思うが、一つの視点で思うのは、社会のこと、会社のこと、〇〇のこと・・・など、自分の周囲のことを捉えているのが自分であるという自覚がないことから、主体性を失っていくらしいということだ。
社会はこうだ・・・と自分が捉えているという自覚がない。社会はこうだ・・といのが事実化して、動かせないものになる。動かせないものだから、自分がどうしていこうという主体性が消える、出てこない。
〇〇のせいでこうなったというのも、自分の捉え方であるという自覚がないから、事実化してしまい動かせないものとなる。だから、自分がどうあったらいいか、どうしたいのかと頭が働かない。
普通はこうだ、みんながこうだ、というのも自分が捉えているという自覚があれば、実際はどうなんだろうとか、みんながそうでも自分はどうしたいんだろうと主体的に考えていけるのだろう。

自分が捉えている、自分の頭で捉えているという自覚がないことから、自分が思ったことを事実として、動かせないものにして、自分が主体的に考え・行動するという人間の本来性を失ってしまっている状態に陥ってしまうのだろう。

主体性の回復、それは、先ずは自分を知ること、それには、自覚から・・・。
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「個々人主義」を考える②

「社会革命は如何に成されるか」の資料の、個々人主義に言及しているところに、以下のような一節がある。
”彼も人、我も人”の明確な事実の認識の下に、我々は改めて自己の中に巣食う根深い個々人主義の再検討をする時ではないであろうか。

”彼も人、我も人”ということは、考えてみれば当然のことなのだろうが、どうも日頃の認識では、そうなっていない場合が多々あるようだ。
「自分だったら、あんなことはしない」
「あんなことするなんて、信じられない!」
「あれは、普通じゃないね」
「みんなしているのに、あの人だけはしない」

「自分の考えが正しい」、「自分の見たものが事実」、「自分の感覚が普通」という状態だと、人の考えや感覚がそのまま認められない、人の行動が許せない、という状態になってしまうのだろう。
裁いている自覚なく、裁いている状態。
縛る自覚なく、縛っている状態。
自由な社会、自由な関係を希いながらも、人を裁き、縛ってしまう。
どうして、そのようなことになってしまうのだろう?

自分を知る基礎コースの中でも、「自分の中では、「一人一人が異う」と本当になっているか?」というテーマがある。
「”彼も人、我も人”の明確な事実の認識の下に」とあるが、自分の中は本当にそうなっているのだろうか?
実態として、自分の中で、自分や人がどのような存在になっているのだろうか?
「自分の意見も一つの意見としてあり、人の意見も一つの意見としてある」、つまり、人の意見も自分の意見も同列になっている状態になっているのだろうか?
もし、そうなっていないのなら、その中身・原因、そのメカニズムを解明しないと、頭で「一人一人は異う」とか、「彼も人、我も人」と言っていても、どうにもならないのだろう。

本当に自由な世界が現われて来る上でも、大事な出発点になるテーマだと思う。
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「個々人主義」を考える①

「社会革命は如何に成されるか」の資料に、人類のあらゆる対立・闘争の原因として、「自己及び自己の周囲のみの利益幸福を追求しようとする個々人主義」が取り上げられている。

「自分さえ良かったらいいんだ」、「自分だけ幸福になればいいさ」というような利己的な心の人は、個々人主義と分かりやすいのだろう。
一方、「みんなのため」、「会社のため」、「国のため」、「世界のため」と、一見、自分を無くし、世のため、人のためという気持ちの人は、個々人主義とは見えないのだろう。
だが、我が家、我が学校、我が会社、我が国が良ければという、「自分が」という枠が広がっただけの、個々人主義ということでは、質的に変わらないのだろう。
しかし、そういう人の希うところは、そんなところではなく、みんなが良くなるようにという心根の人もたくさんいるのだろう。が、そう希っていながらも、希いとは逆方向に行ってしまっている場合も多々あるのだろう。
「ヤマギシ」でやってきたこともそういうことなのかもしれない。
そうなる原因の解明をしなければ、いくら「希っていてるんだから・・」とやっていても、それだけでは個々人主義から脱却できないのだろう。

今、生涯学究制の自分を知る基礎コースでやっている、「自分が思っているという自覚」とか、「実際はどうなっているか」というところに目が向くというテーマとも関連するのだろうが、自分が良いと思っていることが、「自分が思っているだけ」という自覚がなく、「それが良いことなんだ」とするところから、心ではみんなのためを希いながらも、キメツケが生じ、人への押付が始まる。「自分の意見」ということにとどまらず、「良いこと」という幻想、妄想が生まれ、人を人と見れない、人を裁く、縛る世界に入り込む。「みんなのため」という気持ちで、個々人主義の対立・闘争の世界に入り込む。
そこの自覚が無い限り、「みんなが良くなるように」とか、「対立なしでやろう」と思っても、できない。
また、「良い」としているから、自分を省みることも出来にくいし、相手にテーマがあるとなりやすい。

アズワン、一つ、みんなと共に、全人幸福・・・と希いながらも、逆方向に行ってしまう、そのメカニズムの解明と、各自がそこを自覚し、検べていける態勢に入る、そこが、社会革命を成していく上でも、先ずは第一段階であるし、一番力が要るところなのかもしれない。
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