「完全専門分業」を探る メモ⑤

完全専門分業社会=どの人も所を得た社会=真実の自分を知り、真実の生き方の出来る社会
ということになるのだろうか。

真実の自分を知る・・・生涯学究制
自覚。
検べる態度。
目的を知る。
適性を検べ、試す。

真実の生き方の出来る・・・アズワン活動体
目的実現のための活動体。
その人に適った場。
適材適所に就けるよう力め合う。

適材適所というのも固定したものではないだろう。
絶えず検討しながら、どの人も処を得られるような方向に。

最近、「あの人は、水を得た魚みたいに、動き出したね」という声を聞くことが度々ある。
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「完全専門分業」を探る メモ④

経済研究会で、「完全専門分業」を探ってきているが、社会のこと、経済のこととして探っているのだが、どうもこれは、心の世界のことが解決しないと、実現しないことだということが、だんだんとハッキリしてきているように思う。

形で、足りないところに水のように周りあっている姿や、そのことのみに専心没頭している姿など、いくら描いても、それは形のこと。
何かの事業を、「完全専門分業でやろう」などと言ってみても、完全専門分業ができる、そういう心の世界の人でないと、それは実現できないということだろう。
そういう心の状態でない人がやっても、それはいわゆる分業の世界。今の社会でも、いわゆる分業で成り立っているではないか。経済優先の原理の中では、そこが最高効率で得られる分業社会は出来ている。
完全専門分業と、そのような分業の異いは?

自分の目的を知った人が、自分の仕事の目的を知り、そういう心の世界で成そうとする仕事。
そういう人が、本来の仕事に専念できる仕組みが完全専門分業社会、経済ということになるのだろうか。
そういう人の成す仕事は、他の人が本来の仕事に専念できるように齎していく。そういうものなのだろう。
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「完全専門分業」を探る メモ③

分業ということは、「一つ」のことを分けて行うこと。
これも形の上で分けているように見えても、目的が異なる場合は、実質は分業ではなく、「別業」とも言えようか。
個々バラバラの行いを、自分の利益を得るために、その部分だけを採り入れてやっているだけのこと。
「分業」は「一つ」の中での、一要素、一パートという位置付けなのだろう。

完全専門分業・・・それは、個々の心の状態としてみれば、共栄精神の現われとも言えようか。
個々バラバラの心の状態で、いくら分業のような形態をとっても、それは形だけのもので、完全なものではない、「一つ」のものになりようがない。
他が栄える、他が豊になる、そこを純粋にやりたいという心の状態。
それは、ある面で、正常=健康=豊かな状態。でも、これも特別なことでもないのかもしれない。
どういう心の状態なのか・・・検べること。自覚すること。
そして、正常な心の状態でやれるような環境を造ること。

儲けるにしても、安いものを買うにしても、何でも二通りあるようだ。
共栄していく方向と、個々人主義の方向と・・・。
現象でみると分からない。
心の状態。自分がどちらの方向でやろうとしているのか。

やりたいならやったらいい。
欲しいんだから、使ってもらったらいい。
こういうことでは、どっちの方向にいくか、分からない。
共栄していく方向にあるのかどうか・・・。
そこに目が向くかどうかにあるようだ。
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「完全専門分業」を探る メモ②

すごく繁盛している戸隠そばの御主人は、自分の持ち場である蕎麦打ちに専念していて、一日の蕎麦を打ち終わると、店が昼の超混雑をしている時には、仕事を終え、くつろいでいるという姿が紹介されていた。持ち場に専念して、そこを極め、高いレベルの職人の仕事をしている姿なのだろう。
専念している姿としての専門分業というのは、今の社会の中にもたくさん実例があるのだろう。
が、完全専門分業というのは、どういう成り立ちなのだろう?
この御主人が専念できているというのもどういう要素で成り立っているのか、と見ていくと、完全とは言えないものが出てくるのだろう。
お金で雇っている関係であるとか、決められた固定した関係であるとか、義務・権利というような位置付けで、自分の持分をやっていれば休む権利があるというような成り立ちなのかもしれない。(検べていないので実際はどうか分からないが)
そう考えていくと、持ち味の場に就くとか、持ち場を探るという前に、やはり我のない、囲いや境のない状態に成り合った人同士の関係というのが先にあるというのが、完全専門分業社会のベースなのではないかと見えてくる。そこがあって、それから持ち味の場に就いていくという順序になるのだろう。

養鶏書の一節に「求められる雛を造る事のみを考えて専念して居れば、質の事や値段の事等を一口も云わなく共、必ずその種卵は認められて、安く売ろうとしても、買う方が種鶏家を栄えさす値段にするものです。」とあるが、ここも完全専門分業に繋がるあり方を記してあるようだ。
この「求められる」というのもどういうものなのだろう?
「売れる」=「求められる」ではないだろう。(このへんを勘違いしやすのかも)
一時的な流行とか、ブームとかとは異った、本来の「求められる」ものがあるのだろう。
社会の本来の姿を知り、繋がりを知り、そのやることの目的を知ることから、「求められる」ものが観えてくるのだろう。
先ずは、そこを知ることから始まるのだろう。
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「完全専門分業」を探る メモ①

経済研究会として、しばらく「完全専門分業」について探っていこうということになった。今まであまりまともに向き合って検べてみた事がない。かなり浅い理解しかしてないテーマ。
今日はその第一回目。そこで考えたことなどをちょっとメモ。

今の社会も、実際は分業で成り立っている。殆ど全てと言っていいくらい、暮らしていくのには他の人にやってもらっていることばかりだ。様々な仕事、役割があり、それの組みあわせ、つながりの中で生きている。
しかし、それでは、完全専門分業社会とは言えないと思う。
今の社会の分業と、完全専門分業社会との異いから考えみると、何かが観えてくるかもしれない。

今の社会通念だと、実態としてある分業で成り立つ世界、社会が観えなくなりやすいようだ。観えない人も多い。
よく出される例だが、お金を出して家を建ててもらっても、「自分が建てた」とという意識になる。お金を出して買うという行為で、何かをしたり、得たりすると、分業で成り立つ社会が消えて、「自分が買った」、「自分でした」という意識に変換されてしまう作用がありそうだ。これはもう一つ、探っていきたいテーマ。
「自分のことは自分でやる」という観念も大きいかもしれない。境ができる。それとお金という仕組みが絡んで、「自分で暮らす」、「自分で生きる」、「家族で成り立たせる」となる。実際は、自分ひとりや、家族だけで成り立つはずもないのに、「自分で生計を立てる」とか、「家族を守る」とかいった観念で、それが事実、実態かのように観念づく。分業社会が見えるわけがない。

「完全」ということも探ってみた。「完全」とは?
やはり、これは人間とか、社会の「本来の姿」のことではないだろうか。
それが完全であるといいうことかなぁ。
怒りや疑いや一切介在しない。境が一切ない。
報酬や見返りが一切ない。
規則や決まりや、縛りが一切ない。
そういう人間の本来の姿から外れる要素が一切ない。
そういう完全な姿。

持ち味が生かされている、専念できる、そのことに打ち込んでいる、そういう姿も一つの現われだろうが、その前に、完全な社会というか、完全な=本来の姿になっている=復帰しているという状態が先にあってこそ、という順序があるようだ。

専門分業ということとは、ちょっと離れるかもしれないが、完全ということも、
現状から観るものではなく、本来から観るというのも、もっとはっきり検討してみたいテーマ。
改良ではなく、完全、本来を見出し、そこを実現しようとするもの。
例えば、病気はないのが完全。災害はないのが本来。
現状から少しでも良くしようというのと、本来を見出しそこに向かっていこうというのは、行為は似てても、全く異なるもの。
この異い、実は決定的かもしれない。

今日は、これくらい。
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