我執の研究④

観念が変わることは、現象界の変化でも起るし、思い込みでも、勘違いでも、変わることがある。
もちろん、観念の転換から現象界も大きく変わるわけで、正常な観念への転換は必要なことだろうし、正常な観念になるようにというのは大事なことなのかもしれない。

しかし、この「観念の転換」の中身も、もう少し慎重に検べていかないと、何による転換なのか、また、転換したものを持ってしまっても、単なる持ち替えというだけで、正常な観念にはならないことになってしまう。
持ってしまうというのでは、例えば、「誰かのもの」という観念から「誰のものでもない」という観念になったとしても、「誰のものでもない」というのを観念的に持つようになってしまったら、「誰かのもの」という観念と同次元のもの。
どういう観念になるか、というところに焦点を当てると、結局、持つというところでは変らない。つまり、我執の観念のままなのではないだろうか。
こういう観念の転換という現象的なところに焦点が当たると、「怖い豚」が「怖くなくなる」と転換したり、「残れない」と思っていた人が、「残れます」という変化があると、それでよかったという風になってしまう。
何で観念が変り、現象が変ったのか?
観念の変化は、いろんな要素で変り得る。それで我執が取れたのか、我執がついのたか、見極める必要があると思う。

どういう風な観念になったか、というよりも、どういう中身で考えていけたか、検べていけたか、そこに実質があるように思う。
怖いでも、すきでも、残れても、残れなくても、どういう中身でそうなっているのか、どういう風に考えているのか、そこを検べていこうとなる自体が、執われから、もう既に放れはじめているのだろうし、検べることで、どいうことでそうなっているのか、そのメカニズムが見えてくるのだろう。見えてきたら、それをどうするか・・・は、自ずと明らかになるのだろう。見えないうちに、どうこうしようなどとする必要はないのだろう。

客観的に検べられる状態=我執から放れている状態とも言えるのだろうか。
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我執の研究③

人間の認識を考えてみる。
脳科学の研究にあるように、自分の脳の中にあるものしか認知できないとすると、事実を見るといっても、事実に反応している脳の視覚の認知作用を、意識(自己とか、ホムンクルスルスとかいうが、これも脳の作用)というものが、綜合して認識したものが、「見る」ということになるのだろう。
その綜合するという中に、事実に反応しているものと、過去の経験や様々な知識や考え方が合わさって、認識が形成されていくようだ。
見るとか、聞くとか、事実を知ると言っても、結局、実際に反応しているものとと自分の中にあるものの混合物であるということでしかない。
人間の認識というものは、そういうものであるという自覚。
そこがないところから、執われが始まるようである。
認識したことが事実であるとうい勘違い。そこが思い込みのベースになる。(思い込みという自覚もできない)

脳の中にあるものしか認知できないということはそうなのだろうが、それを知った上で、事実に反応しているものを、できるだけそのまま見ようとする、つまり、主観的なものをできるだけ取り除いて、見ようとすることはできるだろう。事実に反応する脳の認知機能はなかなか精巧に出来ていると思われる。その能力も、主観的なものを外すことで、もっと活かせるのだろう。
また、感覚、そこからの認識、そこからの判断、そして様々な思考等の脳の中のいろいろなプロセスも、ある程度、客観的に見ることとも出来る能力が、人間にはあるようだ。そこを見ることで、無理のあるもの、間違った思考回路などは、検出、訂正することも出来るのだろう。

人間の認識はどういうものかを知り、その限界も知った上で、できるだけ、事実、実際に即していこうとすることで、観念に振り回されない生き方が出来るのだろう。
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我執の研究②

我・我執について継続的に研究を・・・覚書メモ。

「我抜き」とか、「我を抜く」という表現がある。これは「我のある状態」から「我がない状態」に変わる、そこを意味しているのだろう。
では、「我のある状態」とは?「我がない状態」とは?そこが明確になる必要があろう。そして、「ある状態からない状態に変わるには?」の方法を考案していくという順序になろうか。

現象面を見ていると、我のある状態、ない状態は見えにくい。引っかかったり、気分が悪くなる時は、我があるのが見えやすいケースが多い。が、機嫌よくやったり、楽しくやっていたり、仲良くやっていたとしても、我がある場合も多々あるだろう。状況が変わったり、意見が違ったり、思うように行かなくなったりしたら、我があったら、すぐにそのような現象はひっくり返ってしまうだろう。
現象の元にある「我があるかどうか」に焦点が合わないと、我は見つかりにくいのだろう。
そのへんも、我の害毒や、我の抹殺と強調されても、なかなかぴんと来ない原因の一つなのかもしれない。

我・我執というものの正体はどういうものか??
「我観判断固持」という表現もあるようだが、その中身を少しずつさぐっていきたい。

人間は、五感などを通して外界の刺激・情報をキャッチし、それを概念化し、自我と言われるような脳の働きで意識を形成し、考えたり、反応したり、行動したりしているらしい。
しかし、普段の観念では、そのような実際の過程とは異なる認識過程で世界を捉え、判断し、行動しているようだ。この辺が我というものに連なる原因なのかもしれないと考え始めている。
食べたうどんが辛く感じたということがあった時に、「あのうどんは辛い」と認識する。もっとすっとぶと、「あのうどん屋のうどんは辛い」となる場合もある。
その日、その時に、そのうどんを、その人が、食べるという行為をして、その味覚を通して、「辛い」と感じた。
真保さんの理知的生活のすすめでにもあったが、自分の感覚に気づくという、感じたりする前の感覚、そこの自覚が先ずはあるかどうか。
そして、あくまで、その人が、そう感じたということ。この自覚があるかどうか。
こういう自覚がないと、辛いと感じたということが、「うどんが辛い」という、うどんそのものになったり、「あのうどん屋のうどんは辛い」という、うどん屋そのものになったりという自分の判断へ飛躍し、事実かのように固持していくことにつながるのかもしれない。
人間の感覚は、それなりに実際の面に適っている面も多々あるので、そういう作用を知り、そこを自覚するということがないと、思ったことと実際が同じだという、判断が形成されてしまうのかもしれない。そこに我の発生の元があるのかもしれない?(もう少し検べる要あり)

我がある状態とは、自分の考えが大きい状態とも言えようか。自分も一個の人間として感情も考えもあるのは、それはそれでいいのだが、それが大きくなり、あたかも自分の捉えたことが事実かのようになったり、正しいかのように思っていたりするのが我ということかもしれない。それで頑なになったり、言い張ったり・・・という現われになるのだろう。
自分が思ったり、考えたりしていることが、一個の人の中のこととして、そのまま捉えられ、他の人も同じようにそれぞれの人はそれぞれ思ったり、考えたりすることがあると、同じ重さで見れる状態・・・、そういう状態が我がない状態とも言えようか・・・。

今日はここまで。続く。
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我執の研究

今日、「我執の害毒」について究明する機会があった。

今までも我執についてはあれこれ研究してきたこともあるし、無我執体得と取り組んだこともあるが、我執とはどういうものか、我執の害毒ってどういうものか、我執はどのようにして形成されるのか、我執はどうやったら取り除けるのか・・・・と、色んなことが究明していきたいテーマとして浮かび上がってきた。意外と、我執について、あまり究明してきていないのではないかと思った。何となく、我執は戦争や争いの元だ、我執があると話が聴けないとか、ま、そういうことくらいで、だから、我執はよくなくて、だから、無我執にならなくっちゃ・・・みたいな短絡的な捉え方で、あまり我執そのものの究明をしないで、我執を無くそうと努力してきたような感じだ。

癌だったら、自覚症状が出てなくても、発見されたら直ちに処置をするように動くだろう(処置の仕方はいろいろあるにしても)。癌があるということは、人体に悪影響があることは自明のことだからだろう。
我執があった場合、それくらに人間の幸福に悪影響があるという認識も薄いのかもしれない。自覚症状が無く、結構楽しく暮らしていても、我執だらけの場合も多々あるのだろうけど、現象界が楽しかったらそれでよいとなって、我執の方はほったらかしの場合が殆どかもしれない。
ある文章に「我執の害毒は殺人狂よりも悪質なり」というのがある。殺人狂がもしいたら、社会の大問題になるのだろうが、そこでは、我執の方が殺人狂よりも悪質だと指摘する。それほどにも強調して指摘する「我執」とはどういうものなのか?その「害毒」とは、どのような実態なのか?それが何を引き起こしているのか?そういうことを具に検べてきていないと思った。そこをもっと解明し、それがどのように形成されるかを検べることで、その対策や、取り除き方などももっと鮮明になってくるのかもしれない。

研究を進めているが、今年はさらに「我執」ということに、焦点を当てて研究を開始していきたいと思った。
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